投稿

9月, 2019の投稿を表示しています

グルメランチを美味しく遊び心で楽しむ かくれんぼ横丁

イメージ
神楽坂「かくれんぼ横丁」 私と友がつづいて訪れたのは、かくれんぼ横丁でした。ここは神楽坂仲通りと兵庫横丁結ぶ石畳の細い路地で、黒塀に囲まれた料亭や隠れ家的なお店などが軒を連ね、江戸のたたずまいを今に伝える場所になります。 また、花柳界の雰囲気を今も残している所でもあり、裏道は粋な芸者衆の色気を感じ取ることができます。何でここがかくれんぼ横丁と言われるようになったのか、お忍びで芸者遊びをした方々がすっと姿を隠せるところからこの名が付いたそうです。 店舗ご紹介 「お座敷天ぷら 天孝」 東京都新宿区神楽坂3-1 1977年(昭和52年)裏路地(かくれんぼ横丁)で開店します。こいしゃの開店についてこのような話があります。初代の新井氏が他店の天ぷら屋で働いていた時のことです。ここの常連の芸者が新井氏が揚げた天ぷらがあまりにも美味しく毎日のように客を連れて訪れていました。そんなある日のこと、その芸者が独立の提案をします。 それは、神楽坂にある自宅の1階を店舗として当面無料で貸し出すことでした。 そして、ここから天孝の店がスタートしいていきます。 こだわり ここの天ぷらは、四季を大切にしたいという思いから、常に旬の素材にこだわり、さらに、独自製法で作りあげた油で揚げていますので、味わい深い仕上がりになっています。 食べた瞬間から感じるうま味は凝縮され、濃くがあって美味しく食通をうならせます。そして、食べ終わった後は全く胃にもたれることがありません。 成せる業を感じます。 店舗 1948年(昭和23年)築、日本家屋で情緒あふれる和の空間を漂わせ来るものすべて癒してくれます。座敷個室は1組限定となります。 割烹懐石「千」 東京都新宿区神楽坂3-1-43 割烹懐石 千はかくれんぼう横丁真ん中で店を構え黒い塀に囲まれ、不思議な想像を搔き立たせてくれるところです。それに比べ店内は木目を活かしたシンプルな作りが特徴で、これにカウンター席と半個室席が30席程度あります。 優しくくつろぐ世界があなたを迎えてくれます。あなたの目の前では、四季の食材を熟練の板前がさばくのを目で愉しみ、そして、本格的な懐石料理を舌で味わうことができます。大人の時間をゆっくりとお楽しみくださいませ。 ランチメニューは2種類: 「流(りゅう)」 野菜を中心としたメニューで美

歴史的な文豪たちが文房具を求めた相馬屋源四郎商店

イメージ
オーラ散歩「相馬屋源四郎商店」 東京都新宿区神楽坂5丁目5 私と友がつづいて訪れたのは相馬屋源四郎商店でした。 ここは、なんと江戸時代に創業し約360年間つづいています。 ここまでくると神楽坂では最古参ですね。 驚くことに、社有地には牛込城の石垣が残っているそうです。ほんのちょっと、この牛込のことについて調べてみましたら、江戸時代は大名や旗本が集中して住んでいた場所でした。 この石垣をどうしても見てみたいという思いにかられ。お願いしましたところ。 残念なことに、ここは見学をお断りしているとのこと。 さらに驚いたのは徳川御三家に和紙を納めていたとのことでした。 徳川義直 :1601年1月2日、京都伏見城(現在の清涼院)で誕生。徳川家康の9男。側室の子。江戸時代初期の大名、尾張徳川家の始祖。 徳川頼宣 :1602年4月26日、京都伏見城(現在の清涼院)で誕生。徳川家康の10男。母親は養珠院(お万の方)。駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となる。 徳川頼房 :1603年、京都伏見城(現在の清涼院)で誕生。徳川家康の11男。母親は養珠院(お万の方)。常陸水戸藩の初代藩主。 さらに、歴代的な文豪のご用達の店でもあり、毎日のように原稿用紙を購入に訪れていたようです。ここまでくると歴史を感じます。 その面々をどうぞご覧くださいませ。 北原白秋 :1885年(明治18年)1月25日-1942年(昭和17年)11月2日、57歳没。 本名、隆吉。熊本県玉名郡関外目村(現在の南関町)に誕生。代表作「雲母集」(歌集)「からたちの花」(童謡集)などがあります。 石川啄木 :1886年(明治19年)2月20日-1912年(明治45年)4月13日、26歳没。 本名、一 ”はじめ”。岩手県南岩手郡日戸(現在の盛岡市日戸)に誕生。 与謝野鉄幹(晶子の夫)から厚い待遇を受けて詩人としてデビューする。代表作の詩集「あこがれ」歌集「一握の砂」などがある。 坪内逍遥 :1859年6月22日安政6年5月22日-1935年(昭和10年)2月28日、75歳没。 美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市に誕生。本名、雄蔵。 1884年(明治17年)「ジュリアス・シーザー」の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒」を出版し、翌年「小説神髄」も出版します。

勝負事の利益を祈るなら善國寺の毘沙門天を

イメージ
「毘沙門天 善國寺」神楽坂オーラ散歩 東京都新宿区神楽坂5丁目36 私と友一がつづいて訪れたのは神楽坂のシンボルと言える日蓮宗の寺院の毘沙門天 善國寺。ここの旧本山は大本山池上本門寺で鎮護山善国寺と言います。 ここの場所は映画「しゃべれども しゃべれども」などのロケ地としも採用されています。 私たちを境内で待ち受けていたのは「新宿タウンガイド認定証」の名刺をつけていらっしゃる方でした。 この方の説明によると、1595年、安土桃山時代(文禄4年)池上本門寺第12代貫主である日惺上人(にっせいしょうにん:徳川家康より江戸に寺地を与えられて善国寺など五か寺を開創する)により馬喰町に開創するも火災に見舞われ1793年(寛政5年)ここ神楽坂に移転となったようです。 本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め特に勝負事に利益ありとして崇められました。 山の手七福神 また、正伝寺(東京都港区芝1丁目12-12)と正法寺(東京都世田谷区松原5丁目43-30)と共に江戸の三毘沙門と言われていました。 現在は、新宿山の手七福神のひとつに数えられています。 大乗山経王寺の大黒天 : 新宿区原町1丁目14、食物・財福を司る神で、現在は米俵に乗り福袋と打ち出の小槌を持った微笑の長者形で知られる。鼠が大黒天の使いであるとされています。 厳島神社の弁財天 : 新宿区余丁町8-5、水の女神で、後に芸術・学問などの知を司る女神と見なされるようになります。ヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻であるのです。他方で弁才天は、音楽神、福徳神、学芸神の性格に加え、戦勝神の性格も持つものがあり、像容は、2臂像と8臂像の2つに大別されます。 大久保山永福寺の福禄寿 : 新宿区新宿7丁目11-2、幸福(血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものになります。 春時山法善寺の寿老人 : 新宿区新宿6-20-16、長寿と自然との調和のシンボルであり牡鹿をいつも従えています。 霞関山太宗寺の布袋和尚 : 新宿区新宿2丁目9-2、肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、所持品である袋は「堪忍袋」とも見なされるようになります。 稲荷鬼

焼焦がしがなぜか旨い勘三郎せんべい 福屋  

イメージ
神楽坂「毘沙門せんべい 福屋」 東京都新宿区神楽坂4-2 私と友が足を運んだのは歌舞伎役者にこよなく愛された「毘沙門せんべい 福屋」でした。 店舗の上に赤で力強く大きく店名が描かれています。この字をお書きになったのは歌舞伎役者の方なのでしょうかね。それにしてもご立派です。この煎餅店を語るには、この歌舞伎役者の事を語らなければなりません。 十七代目、中村勘三郎 歌舞伎役者がこよなく愛した中で十七代目の中村勘三郎(1909年、明治42年7月29日~1988年、昭和63年4月16日:78歳没・十八代目、中村勘三郎の父。六代目、中村勘九郎の祖父) 十七代目の勘三郎は女役・立役を共にこなす昭和を代表する一人で、ずば抜けた才能の持ち主でした。ほとんどの方は勘三郎と言うと十八代目勘三郎(1955年、昭和30年5月30日~2012年、平成24年12月5日:57歳没)を思い浮かべると思いますが、この方以上の名優だと言われております。 手焼 勘三郎せんべい 十七代目 中村勘三郎は偏食で有名な方でした。その中で神楽坂の「毘沙門せんべい 福屋」にも足蹴なく通っていました。そんな、ある日の事です。店主にせんべいをもっと焼け、もっと焼けと注文をつけます。 そして、出来上がったのが「勘三郎せんべい」です。 ここで店主がこう付け加えます。 「焼きすぎた焦げせんべいではありません。焦げるギリギリまで焼き上げたせんべい。これが勘三郎好みの焼き加減だったのです」 ここに勘三郎の好みの焼き加減に仕上げた名を冠する手焼き煎餅が出来上がりました。 究極の味 「毘沙門せんべい 福屋」には一般的な焼き加減のせんべいもあります。やはり名物となっているのは「勘三郎せんべい」です。普通のせんべいに比べると一回り小さめに仕上がっていますので、気が付くと3-4枚は食べていますよ。 この香ばしい焼き加減に口元に運ぶ手が自然に動いてしまう。究極の味とはこのことだろう。よくぞ、中村勘三郎はこの世に残してくれました。 毘沙門 屋号の「毘沙門せんべい」の、毘沙門のことを尋ねると、店主はこう答えます。 「店の真ん前にあるのが毘沙門様なのです。これにあやかり毘沙門せんべいとなずけました」 そこで、この毘沙門のことについて調べてみることにしました。 「四天王(仏法を守護する持国天・

ポコちゃん焼きで運だめしを 不二家神楽坂店

イメージ
「不二家」 飯田橋神楽坂店 東京都新宿区神楽坂1-12 私とと友が訪れたのは、神楽坂名物のひとつに数えられる、飯田橋神楽坂店の「不二家」でした。看板をご覧ください。そこに書かれている「日本でここだけ!」これは型に流し込んで焼いて販売している「ペコちゃん焼」です。 不二家は現在、全国に1000店舗近くありますが、ペコちゃん焼は、まさしく「ここだけ」です。開店した1967年からここだけで継続販売しています。では、現在、どのような種類を販売しているのかご紹介しますね。 味の種類 「 極みこしあん: 北海道十勝産の小豆とテンサイ糖を使用したあんこですので、口当たりが滑らかで優しい味が特徴です。」 「十勝つぶあん: 北海道十勝産の小豆を使用したつぶあんですので、あずきそのものの甘味を味わうことができます。」 「 ミルキークリーム:不二家ミルキーのクリーム味そのものです。練乳と乳味に濃い甘味をプラスし活かしました。」 「 ネクタークリーム: 不二家ネクターのクリーム味そのものです。さっぱりとした味の中に爽やかさを感じる美味しさがあります。」 「 カスタード:バニラビーンズの風味を感じるカスタードクリームですので滑らかな甘味が楽しめます。」 「 チーズクリーム:2種類のチーズをブレンドしていますので、濃厚な味の中に甘しょっぱさを感じる美味しさを味わうことができます」 「板チョコ:甘い板チョコを使用していますので口触りがとってもまろやかです。」 日替わり季節限定品 「 スイートポテト: 鹿児島産のさつまいもを使用した、なめらかで程良い甘さのクリームです。角切りのさつまいもが、更に美味しさを引き立てます。」 「 青森りんごクリーム: カスタードをベースに青森産りんごを使用した爽やかなクリームです。角切りりんごの食感も味わいください。美味しさたまりませんよ」 ポコちゃん ペコちゃんひとりじゃ寂しいと、2006年に登場したのがボーイフレンドのポコちゃん。この企画を提案した店長はこう言います。 「お客様に楽しんでもらいたい。そんな思いから、ポコちゃんは指名買いのできない商品にしました」 ペコちゃんに比べて陰の薄いポコちゃんをゲットするのは、あなたの「運」次第になります。焼き型は全部で72種類、その中の1個がポコちゃんです。さー あ

奥深い甘みが美味しい甘露甘納豆 和菓子の五十鈴 

イメージ
神楽坂「和菓子 五十鈴」 東京都新宿区神楽坂5丁目34 私と友が向かった先は昭和21年創業の人気の和菓子店「五十鈴」でした。 ここの店の先代は「自分が納得した和菓子だけお客様にお出ししています」こんな思いで創業当時から和菓子を提供していました。この思いは今もなを一つ一つ丁寧に手作りされ引き継がれております。 看板商品 ここで友が店主にこう尋ねます。 「店の一番の看板商品を教えて頂けませんでしょうか」 すると、店主からこう返ってきます。 「当店の一番の看板商品は甘露甘納豆です。先代が完成までに1年ほどかけて作りあげた商品ですので、奥深い甘味が特徴になります。」 「作業工程は煮加減や蜜づけなどに独自の工夫を凝らして炊いていますので、煮崩れしていないのに、しっとりとふっくら軟らかい甘露甘納豆に仕上がります。」 「この素材は北海道産の大納言を使っているからこそ味わえる逸品です」 この事を聞いた私たちは、看板商品の甘露甘納豆を早速召し上がりながらこう言いました。 「言葉になりません。言うこと何もないです。もの凄く美味しいです」 と、終始納得しました。 ここで、通年の一部の商品をご紹介します。 通年の和菓子:雪路(ママレード)生地そのものは独特な製法と新鮮な卵でふわっと仕上がっていて、ここにさっぱりとした酸味をいかしたママレードを挟んでおります。この味はお楽しみ頂けます。 通年の和菓子:雪路(バターチーズ)ふわっとした生地には新鮮な卵を使用し北海道産の良質な無塩バターとクラフトチーズをブレンドしたものをサンドしております。お口の中に一口入れた瞬間に広がる美味しさは当店のロングセラーとなっております。 この事らに付け加えるように店主がこう続けだします。 「あの大女優の故山田五十鈴(1917年2月5日 - 2012年7月9日、享年95歳)さんも当店をご贔屓にしてくれていた一人になります。店の名前と一緒というご縁もあってか、先代の店主が講演会の会長を務めたこともあります」 和菓子屋「五十鈴」 代表取締役社長・相田茂のホームページのご挨拶 「徹底した原材料の吟味をなくして、美味しい和菓子作りはできない」、「当たり前のことを当たり前にやり続ける」という先代の教えを大切に引き継ぎ、その上で日夜たゆまぬ努力を重ねながら、常に製

中華まんの美味しさの元祖を味わって 神楽坂五十番

イメージ
中華まん・点心「神楽坂五十番 総本店」 東京都新宿区神楽坂4丁目3番地 近江屋ビル1階 私と友がつづいて、美味しい中華まんのお店「神楽坂五十番」に足を運びます。 ここの店は昭和32年に創業し現在66年目を迎えました。店のモットーは信頼と品質。常に国産素材にこだわり、一つ一つに真心を込めた手作りに徹していますので美味しさの中にも安心があります。 ここの中島社長はこう言います。 「自然がくれたものが、一番のごちそう」 この言葉には感銘を受けます。大地があり、天には太陽があり、この恩恵を受け作物がすくすく成長します。地中深く育つもの、天に向かい育つもの。全て自然の四季の移り変わりが育ててくれます。 この作物のエネルギーを食し人間や動物は成長していきます。まさしく、自然が生きるものに与えてくれる一番のごちそうではないでしょうか。 実食 ここで友がこのような事を言いながら、 「この店はいつも行列のできる人気店だそうですよ」 店の中へと入っていきます。 私たちはふかしたてを注文します。友は特大の肉まん、私はあんまんを注文しました。食べながら口から出る言葉はこうです。 「うまい!」「美味しい!」「生地が厚くてフワフワで味がしっかりしている」「野菜のシャキシャキ感と肉感がとっても合ってる」 肉まんじゅうの歴史 中国の三国志(221年頃)の時代までさかのぼります。蜀漢の宰相、諸葛孔明が南蛮征伐したあと、帰路についたのですが、暴風雨のため川が氾濫し孔明が率いる舞台が足止めをくらいます。この川の氾濫を止めなければ向こう岸に渡る事ができません。 それには、人頭を水の神に捧げ祀る信仰をする必要がありました。 しかし、南蛮征伐の戦いで多くの戦士の命が奪われていましたので、これ以上の人命を損なうことのできなかった孔明は、これに代わるものとして小麦粉を用い皮を作り、その中に獣の肉を丸めたものを包み込み、人頭に似せたまんじゅうを作ったのです。 そして、このまんじゅうを川に投げ入れたところ、これまでの暴風雨が見事に止み川の氾濫が静まります。これが肉まんじゅうの始まりとされる逸話が残されております。 このような世の中です。現在も川が大氾濫した時に肉まんを川に投げ入れ、水の神に捧げ祀っている方がいるのではないでしょうか。 中華まんと日本 では、この

世界的に有名なあのカップルも絶賛 たつみやのうなぎの蒲焼き 

イメージ
かば焼き・柳川「うなぎの店 たつみや」 東京都新宿区神楽坂4-3 私と友がつづいて足を運んだのは神楽坂の「うなぎの店 たつみや」でした。 たれ 1948年(昭和23年)創業、現在2代目の高橋善夫さんが味を継承しており醤油とみりんを同量を混ぜ合わせたあっさりした味には定評があり、継ぎ足し使い続けること70年。この味には本物を感じさせる歴史的な美味しさに定評があります。 養殖 うなぎは天然ものを使わず、あえて、上質な養殖ものを使っております。お客様にはリーズナブルな価格で提供したい。この思いからです。 焼き方 焼き方は身の方だけを備長炭でしっかり焼き上げていますので、あの皮の固さを感じることはありません。うなぎ独特の本来の甘味をご堪能いただけます。 店舗 そして、ここの店は昭和のレトロを感じさせてくれる木造住宅のたたずまい、これがまたいい。この雰囲気だけで、うなぎの美味しさが期待できます。 ジョンレノンとオノヨーコ 早速、私たちはうな重を召し上がりました。お互いに出てくる言葉は「おいしい」「柔らかい」の連発。ここを訪れた文化人も多いようです。 ここで店主の高橋さんがこんな話をしてくれました。 「1980年のことですが、あのジョンレノンさんと奥様のオノヨーコさんもお見えになりました。そして、『ここでうなぎを食べてから好きになりました』とおっしゃていました」 ジョンレノン夫妻が暮らすイギリスにも、うなぎ料理はあるにはあるのですが、クリーム煮とかです。これには好き嫌いがありますからね、本場、日本の蒲焼きの美味しさに触れて驚いたのも分かるような気がいたします。 心から好きになれて本当によかった。 ジョンレノンが亡くなったのは1980年12月8日です。美味しい蒲焼きと出会ったこの年でした。命日のこの日はジョンレノンの曲を聴きながら、うな重食べます。 うなぎの食の歴史 縄文時代の貝塚からうなぎの骨が出土したのが最も古いもので5000年前です。うなぎの食の歴史ってかなり以前からあったんですね。みりんも醤油も無い時代ですから、生焼きか刺身食いかでしょう。日本人に馴染みが深かったことが分かります。 万葉集・うなぎ 日本最古の和歌集「万葉集」の中にも、うなぎが滋養強壮に効果があると書かれています。それがここの部分になります。

下駄にジーンズでお洒落先取りを 履物の助六 

イメージ
老舗の履物屋「神楽坂 助六」 東京都新宿区神楽坂3-6 私と友がつづいて訪れたのは履物の老舗「神楽坂の助六」でした。 ここは明治43年から代々引き継ぎ営業していて、今年で108年目になります。この間、色々な方がお見えになり、有名どころでは、歌集「乱れ髪」の与謝野晶子や首相の吉田茂、小説家の菊池寛等々。 どのような下駄を選びお履きになっていったのか。 思わず想像してしまいました。 現在の店主は三代目の石井要吉さんになります。 初代は日本橋橘町にあった履物屋の中田屋助六へ丁稚奉公にあがり、その後、暖簾(のれん)分けで神楽坂に店を構えます。 この当時の神楽坂は花街で活気づいていましたので、かなり繁盛していました。 花街と聞いて、思わずおもい浮かべたのが花魁。 この花魁が助六の高下駄を履き、横に擦りながら花街を歩く姿が思い浮かんできます。 浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」 毎年4月の第2土曜日、浅草観音うら三大祭の一つの「江戸吉原おいらん道中」が一葉桜(八重桜)が美しく咲く並木通りでおこなわれます。江戸情緒を今に伝える無形財産となっている「江戸吉原おいらん道中」。 吉原の土地で代々受け継がれてきた華やかなおいらん道中を、 江戸文化を基本に再構成いたしました。 舞踊界、歌舞伎界でご活躍の顔師さん、床山さん、衣装部さんなどの協力のもと、地元の方々が参加出演しています。花魁の履く高下駄や参加者の足元に注目してくださいね。 桜まつり開催場所:台東区浅草4〜千束 浅草・小松橋通り中心 江戸の履き倒れ ここで店主の石井さんがこんな事を言います。 「江戸はですね『江戸の履き倒れ』と言われていました。『大阪の食い倒れ』、『京都の着倒れ』江戸っ子の粋っていうのは足元だったのです」 大阪の食い倒れはよく聞きますが、江戸の履き倒れ、足元が粋だったとは初めてです。 さらに店主が履物についてこうつづけます。 「履物の台の部分の素材が木でこしらえてあるものが下駄です。それに対して草履(ぞうり)下駄よりも格式が高いものを言いますね。また、歌人や風流人が好んで履く雪駄があります。当店は履物を購入の方々の鼻緒をその方の足に合わせてオリジナルで全てすげてあげています」 ジーンズに下駄 すると、ジーンズ姿の友が「ジーンズに下

着物が洗濯機で洗える高品質の生地 英(はなぶさ)

「きもの英(はなぶさ)」創業50年 東京都新宿区神楽坂1丁目15番神楽坂1丁目ビル 😍 私と友がつづいて訪れた場所は、着物にもの凄い特徴があって、洗濯機で洗える着物の専門店「きもの英(はなぶさ)」でした。 二人が店に入ったかと思うと女将の武田佳保里さんが出迎えてくれます。 そして、この特徴ある着物のことを尋ねると、こう返ってきました。 「生地が違います。仕立てが違います。意匠が違います」 生地はポリエステルですが、その中でも高品質の厳正されたものを使用しております。仕立てになりますが、洗えるものは洗った後、ここが違わなければなりません。 着物洗いの基本となるのは、何度、洗ってもきちっとしていること。熟練の職人が丹精込めて仕上げていますので、何度洗っても型崩れ致しません。 意匠ですが、より良いものを良心的に作りたい。 ここに英の魅力とポリシーがあります。 はなぶさサロン 「何で着物が洗えるの?」 と疑問をお持ちの方がたくさんおります。 このような仲間やサークルの友達を集めて、そんな疑問をはなぶさのスタッフに投げかけてみませんか。スタッフが着物を一式取り揃えご自宅に伺います。納得いくまで見て触ってみてください。購入する必要は全く御座いません。 まずは、はなぶさの厳しい審査をクリアーした本物の着物をご覧ください。 きっと、ご納得いくはずです。 コンシたんすェルジュ 着物のお手入れのプロ中のプロがご自宅に訪問し着物の無料診断をいたします。寸法が分からない。汚れをどうしたらいいのか。色々な疑問にお答えいたします。あなたの分からないを解決させていただきます。 着物の着方 そして、ここで女将が私に紬(つむぎ)を勧めこう言います。 「渋い色合いの丈夫な生地はお洒落な普段着にぴったりです。光沢のある羽二重(はぶたえ)は、紋付などのかしこまった時に着ます。粋な江戸小紋(えどこもん)は、芸事をする方にお奨めですね。おあつらえ仕立てあがりになりますと92,400円からございます」 ここで友がこんな事を尋ねます。 「反物にも、キングサイズもあるんですよね。私は普通の反物より幅広いものがいいですね。『お相撲さん仕立て』ってやつです。ここ花街には伝統が残り、今でも和装の名店たくさんあります。だからこそ、この神楽坂には着物がよく似合い

健康長寿と縁結びを願うなら筑土八幡神社で

イメージ
新宿「筑土八幡神社」 東京都新宿区筑土八幡長2-1   私と友は新宿の筑土八幡神社にご挨拶にあがりました。 ここの石造の鳥居は新宿で最古と言われており新宿区登録有形文化財にもなっております。(手前の奉と書かれた左右の石柱の奥) ここを登り本殿に行くと迎えてくれるのは左右に鎮座する江戸狛犬。右側が阿形獅子、左側が吽形獅子、どちらも見事なほどの獅子です。 ここの神社のご利益は、「縁結び」「健康長寿」「商売繁盛」「家内安全」 御朱印もお忘れなく頂戴してください。 筑土八幡神社の由緒 嵯峨天皇の御代に武蔵国豊嶋郡牛込の里に、たいへん熱心に八幡神を信仰する翁がおりました。ある時、翁の夢の中に神霊が現われこう言われます。 「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」 翁は不思議に思って、目をさますと、すぐに身を清めて拝もうと井戸のそばに行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に、細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまりました。 翁はこのことを里人に語り神霊の現われ給うことを知りすぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀ったのです。その後、伝教大師がこの地を訪れた時この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀りました。 その時に、筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけます。さらにその後、文明年間(1469-1487)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだのです。(東京都神社名鑑より) 筑土八幡神社のお祭り 数年前に復活しました白木大神輿の渡御が行われます。令和5年度の日程は以下の通りです。 9月8日(金)奉納輪踊 18:30~20:30 9月9日(土)大神輿渡御 9:30~17:00 9月15日(金)大祭式典 11:30~ 祭神:応神天皇(おうじんてんのう)・神功皇后(じんぐうこうごう)・仲哀天皇(しゅうあいてんのう) 江戸時代には「筑土八幡宮」といい、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇を祭神としてまつった神社です。平安時代初期、老翁が八幡宮のお告げを受けて玉垣をめぐらし、八幡宮としてあがめたと伝えられています。 のち慈覚大師が阿弥陀如来を本地仏とし、江戸城主上杉朝興が社殿をつくり、この地の鎮守としました。 筑土の名は、筑紫宇

万年筆の世界を知るならペンブティック書斎館 

イメージ
ペン・ブティック「書斎館」 港区南青山5-13-11 パンセビル1階   今度はペン・ブティック書斎館を訪ねます。 ここは国産をはじめ世界中のペンが新品からアンティークや多彩なデザインのものが 3000点以上も取り揃えられ、価格も数万円から数百万円のものまであるようです。 もちろん、マニアが憧れる逸品も揃えております。 260万円の万年筆はどれだ? ここで店員の柏倉さんが二人の目の前に5本の万年筆並べこう言います。 「この5本の万年筆の中に1本260万円のものがあります。 さて、どれだと思いますか?」 〇 1本目はスイス製  カランダッシュの限定コレクション「1010リミテッドエディション」 黒いボディーの全体に大小の歯車がリアルに手で彫刻され、 中央部の歯車には赤く丁寧に塗装されています。 ボディーの先端部分にはルビーが輝いています。 〇 2本目はイタリア製  ビスコンティ「フローレンス」 天然のレジンと植物成分を混ぜて作ったヴィスコンティ独自のボディを持ち、 ゴッホの作品を思わせるファンタスティックな色使いが最大の特徴になっています。 〇 3本目は日本製  パイロット創立90年 世界限定900本「朱鷺」 漆黒に映える螺鈿とシルバーの輝きが非常に美しい万年筆です。 キャップのバンドはスターリングシルバーに 漆の研ぎ出し仕上げで水面を舞う朱鷺を表現しています。 〇 4本目はイタリア製  ビスコンティ「アルケミィ」 赤色レジン素材のボディの両端には異なるタイプ(太さ)のペン先が装着され、 インク吸入システムは極めて独創的なもので、 それぞれのペン軸に開けられた吸入口より、付属の専用スポイトを使っています。 専用ディスプレイ台は、人の一生を表すという2頭のドラゴンが形作る輪の内側に、 磁石でペンを固定されます。 円錐形のガラスインクポットが2頭のドラゴンをしっかり支え、 ペンの華麗さを際立たせます。 金と銀の丁寧な装飾が施された、ビスコンティが満を持しておくる至極の逸品です。 〇 5本目はフランス製 デュポンの「グラフィックジュエリー」 ゴールド・シルバー・純正漆の素材を採用し胴軸は、 すべて金属製で貴金属工芸の手法により塊から芯をくり貫いて作り上げています。  金属に漆を塗る技術もS.T.デュポン独自のも

前田紅華の手本で段位取得 書道の紅華村塾

イメージ
書道教室「紅華村塾」塾長 前田紅華  表参道ヒルズ教室(ギャラリー・エイティ) 東京都渋谷区神宮前4-12-10 表参道ヒルズ西館1階  毎週日曜日 午後6:30〜8:30 中目黒教室 東京都目黒区中目黒2-10-13 中目黒スクエア2F 毎週木曜日 午後6:30〜8:30 入 会 金:10,000円、 月額受講料:15,000円、体験レッスン:3,000円 前田紅華のプロフィール 生年月日 1980年8月19日 出身地 大阪府 血液型 A型 1985年、書道家の松田峰華先生に師事する。 2006年、中目黒にて紅華村塾を開塾する。 書の世界に挑戦 外苑前駅のすぐそばにある「紅華村塾」で書道を学べく挑戦してみました。ここの塾は主に近代詩を得意とする太源書道会に所属し、書の基礎である漢字の古典を中心に、規定(楷書)、随意(行書)、仮名、細字、ペン字、近代詩を指導しています。 そこで、創作書道で元気になる字を教えてもらうことに。そしてこう言います「前回、縁起の良い文字は元気をもたらす。と言う話を聞きました。そこで今回は縁起の良い文字を書いて、それを飾ろうかなと思っています」 「ドリャ」と「氣」 そして、前田先生が書かれた文字は「夢」でした。 そして、こう言います。 「どんな困難にあっても負けずに夢を叶える、という意気込みでこの文字を書きました」 そしてその手本をみて、筆を取ります。 私が書いた文字は「ドリャ」、友は「氣」と書きます。 ここで前田先生が私の作品をこう評価します。 「1枚にまとまっていて素敵だと思います。筆を置いて、引いてという習い方をしたと思うんですけれども、創作用の筆なので、もっと遊んでいただいていいですよ。 好きな風に操っていただいて大丈夫なんです」 前田紅華のアドバイス このアドバイスを受けた私は、面白いと言いながら、先生から手を添えられながら再び「ドリャ」と書いてみると、今度は躍動感あふれる気合の入った文字が生まれたのです。 この事にこう言います。 「はみ出ても怖くないという思いで書いてみました。これが良かったんですね」 これを聞いた先生がこう言います。 「そうです。とっても気合がはいって元気が出ています」 そして、今度は友がアドバイス通り、さらに伸び伸びとした「氣

美輪の思い出のシャンソン喫茶 銀巴里

イメージ
シャンソン喫茶 銀巴里 東京都中央区銀座七丁目9番11号 1951年(昭和26年)日本初のシャンソン喫茶店が開店。 1990年(平成2年)全国から閉店を惜しむファンが集い、銀巴里は閉店します。 この時、銀巴里の名前が記された食器類がすべてファンらが持ち帰っていきます。 現在この場所には、このような石碑が立てられています。 美輪がここの事をこう言います。 「ここで私が40年間お世話になり育ててくれた『銀巴里』の入り口です。文化の発信地で、ここに川端康成や三島由紀夫・江戸川乱歩らの多くの文化人が全員ここへ来てたんですもの。本当はここにあまり寄りたくないの、涙が出ちゃうから。」 プロ歌手としてスタート 長崎から歌手を目指し上京。 音楽学校に入学した頃、銀座七丁目にシャンソン喫茶店があることを耳にします。 そして、プロの歌手として初めてステージに上がったのが、ここ「銀巴里」でした。 ここで多くの文化人と交流を深めていくのです。 そして、1971年、ここでの最後のステージを飾ります。 ステージ歌手 〇 シャンソン歌手・推理作家:戸川昌子(とだまさこ、東京都出身、東京都立千歳丘高校 中退、1931年3月23日~2016年4月26日、享年85歳) 「銀巴里」の素人飛び入り企画に参加した戸川がアルトでシャンソンを歌いはじめると、この歌声に耳を傾け将来性を感じた美輪明宏は、バンドマスターにレギュラーに加えるよう働きをします。ここから戸川のシャンソン歌手がスタートします。 その後、戸川はステージの合間に楽屋でミステリー長編小説「大いなる幻影」(老いた独身女性ばかりが住む女子アパートが舞台。全ての部屋を自由に開けることのできるマスター・キーを巡って最初はちょっとした悪戯から始まって次第に深刻な事件が引き起こされていく)を書き上げます。 1962年、第8回 江戸川乱歩賞を受賞。 〇 歌手:クミコ(本名:高橋久美子、茨城県水戸市出身、早稲田大学卒、血液型B型、所属事務所はプエルタ・デル・ソル、1954年9月26日~ ) 早稲田大学時代、歌に目覚めこの路線を走りだす。1982年6月、シャンソンのライブハウスここでのオーデションに自身のオリジナルで参加し見事に合格を果たし、ここから本格的にシャンソンの勉強に励むようになります。 〇 シャン

マンボ発祥の地とその男 東宝ダンスホール

イメージ
東宝ダンスホール 東京都千代田区有楽町1丁目5-2 東宝ツインタワービル 7F  1968年(昭和44年)5月に東宝エンタープライズが経営する約100坪のダンスフロアとして開館しました。格式あるダンスホールで生演奏をバックに社交ダンスを贅沢な空間で楽しむことができます。 ここに訪れた宏明がこう言います。 「ここの生伴奏を聴くと青春時代の血が騒ぎだすの。ダンスホールがいくつもあって、いつも熱気あふれていましたよ。そしてね。」 「日本でマンボの音楽が流れていても、誰一人として踊ることができなくて、この当時、私は進駐軍のファンらにジャズを歌って聞かせ、その代わりにというかマンボのステップを教えてもらいながら踊っていたから知っていたの。」 「そして、このフロアーで友らとマンボステップを踏んでいたら、銀座のヤクザ連中が『教えてくれ!』と来て。それで教えてあげたのよ。ここからマンボが全国に広まっていくの」 日本のマンボの文化を作ったのが美輪さんだったとは、知りませんでした。 マンボ ラテン(中南米)音楽の一つで、キューバ民謡をアフリカ原住民の音楽のリズムと結びつけたものになります。 その中で有名なのが1950年、キューバの作曲家でマンボキングと呼ばれた、ペレス・プラードが作曲した「マンボNo5」はマンボ音楽の中で最も有名な曲になります。そして。「マンボNo.8 」を発表するとこれがまたヒット。 つづいて、有名な曲となると、やはり、ペレス・プラードのヒット曲で「エル・マンボ」キューバ語では「マンボはなんて素晴らしいんだ」 ではここで、マンボキングと呼ばれた男、ペレス・プラードについて触れてみます。 プロフィール 生年月日 1916年12月11日 出身地 キューバ マタンサス 本 名 ダマソ・ペレス・プラード( Dámaso Pérez Prado) 母親が学校の教師をしていた影響もあり、幼い頃からクラッシックピアノを教わっていました。その後、成人となり地元マンタサスのクラブでピアノの演奏をしていました。 この頃のジャンルはポピュラーでした。 そして、1940年代にはペレスは故郷を離れ首都のハバナにいたのです。ちょうど、この頃、ルンバとジャズが大分流行していました。ここでペレスは、この二つのジャンルを取り入れたリズム曲

家族の幸せに夫婦箸を銀座夏野 

イメージ
「銀座 夏野」箸の専門店 東京都中央区銀座6丁目7−4 銀座タカハシビル1F ここで店主の高橋隆太さんにこう尋ねます。 「どういう心がけで、お箸だけのお店を作ろうとお思いになったのですか?」 この問い掛けにこう答えます。 「箸は日本人の誰もが使う本当に大事な道具です。なのに専門店がないのは不思議だなと思い。これが切っ掛けとなりました。だったら、自分らで始めることにしました」 お父さんの箸 そして私がこんな事を言います。 「箸って思い出すのが”お父さんの箸”とか”お母さんの箸”そして”子供の箸”ですね」 ここで友がこんなことを付け加えます。 「そこなのよ。日本人だけが、お父さんの箸だと言って、この箸を使っちゃいけないの。これが父親の権威というもので、みんなに知らしめているのです。」 「それを保つためにお父さんの箸があります。その次にあるのが、お母さんの箸、この箸は優雅に彩られています。そして、子供たちの箸になります。」 「それぞれの箸によって色彩から何から全部違います。世界の歴史の中でこのようなものはありません。日本がいかに食文化で洗練された文化をもっていて、いかに素晴らしいかが分かるわけで、その一つの象徴となるのが箸なのです」 そしてこう続けます。 「箸は津軽塗から何からたくさんの箸があります。私は食事のたびに箸の使い分けをしています。そのほうが食事がとっても楽しくなりますよ」 箸の歴史 607年、遣隋使として中国に派遣された小野妹子らが持ち帰った箸と匙を聖徳太子が朝廷の儀式において使用したとの記録があります。また、日本の古事記(712年)や日本書紀(720年)によると神代(かみよ:神の時代)の頃から箸は存在したと書かれてあります。 祭祀(神道)や儀式の際に箸は用いられていましたが一般民衆は手食をしていたようです。 ではいつ頃、民衆は箸を持ち食事をするようになったのか、それは8世紀(奈良時代 710年~794年)頃と手食から箸食制度が進められたようです。寿司を手で掴んで食べるのはその名残なのでしょうか。 主な箸 若狭塗:福井県小浜市の若狭塗箸が有名で全国のシェア80%を占めています。 輪島塗:石川県輪島市の漆器で丈夫さに重きをおいています。 津軽塗:青森県弘前市の伝統工芸品の一つで、江戸時代中期までは藩名か

あんみつ・おしるこのこだわりの店と言ったら銀座若松

イメージ
東京都中央区銀座5丁目8−20 銀座コアビル1F 明宏とがぶんがデザートの店として選んだのは銀座5丁目の元祖あんみつの店「銀座 若松」 ここは明治27年(1894年)124年前に現在のこの場所で創業されます。 そして、元祖あんみつが誕生したのは、お客様のこの一言からでした。 昭和5年、ちょうどこの時代は、神社の掛け茶屋の甘味や資生堂パーラーのソーダー水や甘いアイスクリーム、福田屋の甘辛の田楽餅など。 甘いものがトレンドの時代だったのです。 もっと甘いもの そんな時でした。銀座若松の常連客が店内でこう言います。 「もっと甘いものが食いたい。」 そこで、頭をひねったのが。銀座若松の二代目、森半次郎でした。みつまめにこし餡を乗っけ、さらに黒砂糖を溶かし煮詰めた黒蜜をかけて商品化したところ、これが驚くほどの人気を博し、あっという間、この美味しさが広まっていきます。 これが、お客様の一言から生まれた 「あんみつ」 現在は庶民の味となり慕われ、愛されつづけて今日にいたっています。 こだわり ここの職人は素材にもこだわりをみせ美味しさを追及しています。 あずき 小豆は北海道十勝産を使用しています。 全国の大豆の収穫量の8割が北海道で収穫され、その3割が十勝産になります。何故、十勝産が良いのかと言うと寒暖差があるからです。夜の気温が高いと小豆の成長に栄養分を奪われてしまい糖分が蓄積することができません。十勝地区はその点、昼は暖かく、夜が冷涼ですので養分を糖分に換えてくれますので、甘い小豆が育ちます。 赤えんどう豆 北海道富良野産を使用しております。 小豆と内容は同じになります。 寒天 伊豆三宅島産を使用しております。三池浜で捕れる天草は日本でトップクラスでコシもあり味も濃く全国から注目されているブランドです。 黒蜜 奄美大島産のものを使用しています。天然の砂糖きびの搾り汁時間をかけ煮沸して作っているためか天然の甘味が凝縮されていますのでクセがありません。 是非、厳選された素材で作られた「元祖あんみつ」を召し上がってみてください。さらっとした喉ごしはたまりませんよ。 お持ち帰りもできますので、友達にも是非、この味を伝えてあげてください。 ご注文 がぶんの前に運ばれてきたのは 「元祖あんみつ」 「僕は、いつも、あんみつの事をパワ

カツカレーを最初に考案した巨人軍の選手は野球殿堂入り

イメージ
銀座グリル スイス 本店 東京都中央区銀座3-5-16 本日は知る人ぞ知るカツカレー発祥の店。 ここに明宏と友のがぶんが食事に行ってまいりました。 このお店は1947年(昭和22年)に創業するのですが終戦2年目の年ですので、まだまだ東京のあちこちは焼け野原状態でした。 こんな状況の中で首相官邸・国会記者クラブにて総料理長を務めた岡田新之助氏がより多くの方々に高価であった西洋料理を手の届く価格で食べてもらおうと、外地より帰還した息子らと昭和22年、銀座7丁目に「銀座スイス」を開店させます。 この当時のカレーの呼び名は「カルカッタカレー」と呼ばれ人気を博します。やがて、この味を受け継ぐのが、末娘の伴侶である庄子敏松氏です。 5つの約束 銀座スイスにはお客様に対しての5つの約束がございます。 1、先代から受け継ぐレシピを忠実に守り、伝統の味を継承していきます。 2 、手作りでひとつひとつの食材にこだわり、素早く出来たてのご提供を目指します。 3 、常にお客様のニーズにお応えするため、新メニューに挑戦しつづけます。 4 、国内外から人々が集まる銀座の地で”日本食としての洋食”を体験、実感してもらいます。 5 、“まじめで丁寧な”商品とサービスを心がけます。 「日本食としての洋食」もの凄く伝統を感じてしまいます。 口の中へ運ぶスプーン1杯の日本食。 どうぞここで、召し上がってみてください。 カツカレーの誕生 この評判を聞きつけてやってきたのが、東京巨人軍の千葉茂選手でした。 そんな、ある日のことです。 突然、「カレーにカツレツ乗っけてくれ」と言われ、 お出ししたのがカツカレーのはじまりになります。 その後、この味をお気に召された千葉さんは、知り合いをよく連れて来られてカツカレーを注文されていました。そんなに美味しいのであればと、千葉さんのみならず、一般の方にも是非召し上がってほしい。 そして、メニューに掲載する事にしたようです。 グルメブーム到来 その後、千葉さんが新聞の取材の時にカツカレーは自分が考案したものとお話になり、銀座スイスが取材を受けるようになります。そしてグルメブームの到来で、さらに注目されるようになっていきます。 現在の玄関脇のメニューボードの下には、しっかりと「千葉さんのカツレツカレー」と

美輪と三島由紀夫の衝撃的な出会いの場所は銀座ブランスウィック

東京都中央区銀座尾張町(現:銀座五丁目) 明宏と友のがぶんはお洒落に決め銀座五丁目を目指します。 その場所はとっても懐かしい「銀座ブランスウィック」 ここは戦後間もない頃、ゲイ喫茶兼倶楽部としてオープンします。 ここのことを明宏はこう言います。 「今は、跡かたもなく無くなってしまったけど、終戦後の昭和26年頃、この場所に『銀座ブランスウィック』と言うお店があって、一階が喫茶店で二階が倶楽部になっていたの」 「私が国立音楽学校に入学するため長崎から上京し、音楽学校の1年生の時にたまたま、この店の『店員募集』のチラシを見かけて店員になったのよ」 運命の出会い 「そうしたら、ここに文化人がみんな来ていて、この中の一人に三島由紀夫さんがいて、私にとっては運命的な出会いだったわ。そしてね。この店で私のことを見かけると、気にいってくれたのか、ホステスでもないのに私をこうテーブルに呼ぶの。」 『チップを弾むからここに来い!』 「でも、何度も無視を続けましたよ」 「あまりにも、しつこいのでテーブルへ行ってみると」 三島さんがこう問いかけてきたのよ。 『何か飲むか?』 そこで私はこうやって断ったの 『芸者じゃないので』 今度は三島さんがこう言うの。 『君は可愛くない子だね』 だからこう言って返してあげたの。 『私は綺麗だから、可愛くなくてもいいんです』 そして私はそのまま帰ったのよ。 「三島さんは、私の、この好意にきっとしびれたのでしょうね。ここから二人の交流が始まっていったのよ」 恋愛関係 三島由紀夫は明宏に好意をよせ、ここの店に毎日のように足を運ぶようになります。1958年に三島は結婚をするのですが、彼の存在はさもさも「愛人」であるかのように公然の秘密であるかのようにも語っていました。 メディアも三島の行くところに彼がいると「二人は恋愛関係」と書き立てます。 この事に明宏はこう言います。 「とんでもない話です。昔ある雑誌で文壇の方々と対談する連載をやっていた時です。ここに三島さんにも参加していただきました。この一度だけですよ」 長所と短所 その時、三島さんがこんなことを僕に言いました。 『君には95%の長所がある。才能もあるし美貌もある。だけど、5%の短所がある。その5%の短所は、95%の長所をい

男をお洒落に着飾るには帽子は欠かせません

イメージ
東京都中央区銀座2丁目6−5 藤屋ビル 銀座2丁目に足を延ばし癒しの散歩をはじめます。 ここで目に飛び込んできたショップがりました。 そこは大正6年ごろに創業しているトラヤ帽子店です。 流行のはじまり 明宏がウインドウに飾ってあるものを指差しながらこう言います。 「明治から昭和初期にかけて着物の姿に、あのカンカン帽がよく似合ったのよ。だから町中の若者はすべてこのスタイルだったの。今だったら開襟シャツに、この帽子かしらね」 カンカン帽とは 麦わら帽子の一種で、水兵や船の漕ぎ手のために作られた男性用の西洋発祥の帽子だとされています。 素材は麦わらを平たくつぶして真田紐(平たく厚く組んだ木綿の組紐)のように編みプレスで固く成型したあと、糊やニスなどで塗り固めます。そのため、雨や水しぶきで帽子が損傷しないようになっています。 平らなつばと円筒形の帽子の山の部分が、このカンカン帽の特徴です。 男のお洒落づくり そう言えば、落語家の月亭可朝はいつもカンカン帽をかぶりながら高座に上がっているのを思い出しました。それとジュリー(沢田研二)も、お洒落にチョイ悪的なかぶり方をしていつもステージに立っていますよね。 あの「カサブランカダンディー」歌っているあの姿を思い出して見てください。とってもカッコイイです。斜めに被る帽子の、このスタイルをはじめておこなったのはハリウッドの映画俳優・ハンフリーボガートなんだとか。 魅力 彼は顔もでかいし体形だってカッコいいとは言えない。でも、男の魅力を最大限に演出しました。女にモテるためにどうかぶるべきか。何千回も積み重ねます。 そして、コートの襟を立て帽子をちょい斜めに。 そして、タバコを親指と人差し指でつまんで吸う。 このスタイルを見た女性らは悲鳴をあげこう言います。 「ボギー!お願い。こっちを振り向いて」 彼の行くところには女が群がります。結婚すること4度。このプレイボーイは数多くの女性に囲まれ、1957年1月14日、57歳で他界します。 男の魅力づくりのプロは天国でも、きっとモテていることでしょう。 さらに明宏はこう続けます。 「着物に似合う帽子はもうひとつ。それはパナマ帽。これもかぶり方ひとつで粋にもなるしダンディにもなれる。それに人格も変り立ち振る舞いも変身願望も満たしてくれる。男の特効薬とも言

龍が銀座の上空に現れた豊岩稲荷神社での祈りからか

イメージ
豊岩稲荷神社 (中央区銀座七丁目8-14) 高級ホテルやレストラン、ブランドショップなどが多く、若者や貴婦人や紳士が集う銀座。ここに昔ながらの風情を醸し出してくれる場所があります。 金春通りのビルの谷間にひっそりと佇んでいるため、昼でも薄暗く、さらに赤い壁に囲まれていますので、ここの場所に辿り着いた瞬間、現実の世界でない空間に飛び込んだ錯覚を覚えてしまいます。 行き方は本当に簡単なのですが、注意深く探す必要があります。銀座のおでん屋「やす幸」(豊岩稲荷神社と住所は同じ)を目指してください。 店に向かって左側に「豊岩稲荷神社」の石柱が立っていますので、そこを奥へと進むと灯篭が連なる路地が見えてきます。そして周りが赤い壁になっています。 赤の異空間 何故、ここは赤い壁なのかと言いますと、稲荷系の神社には数多くの鳥居があります。しかし、ここには鳥居がございません。なので周りの壁が赤色に染まっているのです。到着しましたら、周りをご覧ください。まさしく異空間と言えます。 ご祭神になりますが、稲荷神、またの名を倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と言います。参拝した後は、何度か曲がりますが、そのまま真っすぐお進みください。金春通りに辿り着きます。そこにも「豊岩稲荷神社」の石柱が左側に立っております。 歴史 さて、この豊岩稲荷神社の歴史となります。 明智光秀の三羽烏の一人、安田国継(通称:作兵衛は1582年、織田信長に対して起こした本能寺の変では先鋒で出陣し信長に槍で攻撃したと言われている。1597年、自害により死去。享年42歳、死んだ日は奇しくも織田信長の命日と同日であった)の奉斎により始まったと伝えられております。 この神社は火防の神でもあったことから、後に歌舞伎役者等々からあがめられます。その後、関東大震災(1923年 ”大正12年” 9月1日11時58分32秒頃)や東京大空襲(1945年”昭和20年”3月10日)の戦災などに見舞われ、現在の姿となりました。 龍神系の神社 最近では、縁結びの神様と開運としても人気があります。銀座七丁目の守り神として日々、近隣の方々がお参りに来ております。まさに銀座のパワースポットと言える場所ではないでしょうか。 ここの事を明宏がこう話しだします。 「ここには何度か足を運んだことがあります。普