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10月, 2019の投稿を表示しています

オペラの母と言われた女の一生が短すぎた訳

浅草オペラを語るには、母と言われた高木徳子のことを一番に語らなければなりません。 プロフィール 本 名 永井徳子(ながいとくこ) 出生地 東京都千代田区神田神保町 生年月日 明治42年(1891年2月15日)-大正8年(1919年3月30日) 学 歴 神田高等女学校(現:神田女学園中・高学校)中退 結 婚 明治39年(1906年)11月 母親らの勧めで宝石店の次男で米国籍を持つ高木陳平と15歳の時に結婚し2人は渡米します。 ショービジネス ニューヨークに到着した2人はオハイオ州カントンで陳平は料理人、徳子はメイドやホテル等を手伝うも下働きを嫌い旅芸人となって各地を巡業して歩きます。徳子が歌う歌声は観客が魅了するほど、行く先々で喝采を浴びつづけます。 そんな徳子が本格的に歌の勉強をしている時でした。日本人の高折周一と出会いダンスを勧められ学びはじめます。この時です。アメリカ流のショービジネスがどんなものかを知り。そして、自分の中に秘めていた本能に目覚めます。 喝采 その後、ダンスとパントマイムを習ったあと、幾つかの職業を経験した後、ニューヨークの映画会社と夫婦共契約をし働くことになります。ここでも徳子の評判は高くイギリスの首都ロンドンからのオファー受け渡英します。 この時、旦那の陳平は徳子のマネージャー的な存在となっていました。 この地でも徳子の歌やダンスのショービジネスは好評を得ていました。そしてロシアからもオファーが入り渡露。公演をしている時のことでした。第一次世界大戦が勃発します。 1914年(大正3年)7月28日の時のことです。このことにより高木夫妻は同年、帰国の途に就きます。徳子23歳のときの事です。 日本デビュー 8年ぶりに日本の地を踏んだ徳子はイタリア出身の演出家・振付師のジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー(通称:ローシー)の振付による「夢幻的バレー(夢幻的バレエ)」で、1915年(大正4年)2月1日、東京・内幸町の日本初の西洋式演劇劇場と言われる帝国劇場で日本デビューを飾ることができました。 旗揚げ 1916年(大正5年)春ごろ、俳優・演出家の伊庭孝(浅草オペラを築きあげたひとり)の勧めもあり「世界的バラエチー一座」の集団を立ち上げ同年5月27日から浅草公園六区のキネマ俱楽部で昼夜に渡り公演

国内初のローラーコースターが元気に走り続ける 浅草花やしき 

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色々な歴史が”花やしき”をここまで育ててくれました。 ローラーコースターの話にはちょっと驚くかもしれません。 嘉永6年(1853年)日本で最初の遊園地が開園となります。この年の6月3日、神奈川県三浦郡浦賀町にペリーの黒船が来航。その6日後の6月9日、ニューヨーク万国博覧会が開幕されます。このような年でしたので、 どのような遊園地が開園したのか想像しながらご覧くださいませ。 花園(かえん) 団子坂(現在の文京区千駄木のあたり)と呼ばれるこの場所で地元の植木・造園職人の森田六三郎が菊細工や牡丹をあしらった花園として開園したのが1853年(嘉永6年)の江戸期のことです。この当時は園芸業者がお互い競いながら菊人形作りが盛んにおこなわれていました。 このことから、特定生産者による品物として流通するようになっていきます。 この事もあり花園は「花屋敷」と呼ばれるようになります。 明治時代 この当時の敷地面積は約8万㎡=24200坪、東京ドームの約1.7倍。江戸期ですので俳人や歌人らの園遊会などが開かれたり、武家の方々にも広く開放されたりしていました。明治に入り浅草寺一帯は浅草公園地となるのですが、花屋敷は元八番組・元九番組・元十番組の一部が合併して第5区となっていき、その敷地面積は縮小されてしまいます。 1872年(明治5年)頃からブランコやシーソー等の遊具も設置されるようになっていき、 1883年(明治16年)には大眼鏡館(望遠鏡)等が置かれるようになります。 1885年(明治18年)材木商の山本徳治郎がここの経営を引き継ぐこととなります。ここから本格的な遊園地化がなされていきます。ここの利用者は上流階級の方々から一般庶民にも浸透し全国的に見世物興行が広まっていき、ここ花屋敷も動物園的な役割も果たすようになっていきます。 1887年(明治20年)には五層の楼閣「奥山閣(おうざんかく)」が移築され翌年に公開されます。 1907年(明治40年)浅草六区の東京勧業博覧会から観覧車が移築されます。それ以外に映画館や演芸場の娯楽施設も立ち並ぶようになります。 大正時代 明治末年に団子坂は興行地としては衰退していきます。大正時代に入り花屋敷では虎の出産やライオンの出産で話題を振りまき全国有数の動物園として名を馳せるようになります。 192

松竹少女歌劇団(SSK)の想い出の場所 

 「国際劇場」 東京都台東区西浅草3-17-1 昭和12年(1937年)7月3日、幸龍寺(湯島、浅草と移転するも大正12年(1923年)の関東大震災の影響により昭和2年(1927年)世田谷区北烏山に移転)の跡地に松竹の資本の元、東洋一の五千人劇場と言われた浅草に国際劇場が開場されます。 小月冴子 ここのこけら落としの舞台は松竹少女歌劇団(SSK)の「第8回東京踊り」でした。 ※少女歌劇団:大正から昭和初期にかけて誕生した少年少女音楽隊が流行りだしていく。この事を背景に女性のみの歌劇団が1928年ごろに誕生発展しだします。 この時、松竹歌劇団(SKD)の男役スターとして「第8回東京踊り」を国際劇場の初舞台を踏んだのは、後に大幹部となる小月冴子でした。 ※小月冴子:1922年12月24日-2012年12月3日、89歳没:昭和11年、松竹少女歌劇学校に第4期生として入団する。昭和19年幹部に昇進し、昭和21年には大幹部に昇進となる。同年『ハムレット』タイトルロール=オペラやバレエ、演劇、映画などにおいて、作品名と同じ名前の役や昭和23年、1948年『猿飛佐助絢爛城へ行く』の早百合姫で人気を集める。昭和62年、紫綬褒章を受章。 公演内容と歌劇団 その後の公演は、松竹歌劇団(SKD:1928年から1996年まで松竹を母体としたミュージカル劇団)の大衆娯楽演芸は主に東京踊り、春のおどり、夏のおどり、秋の踊りと松竹映画との組み合わせで、それ以外は歌謡、剣劇、喜劇等が上演されていきます。 しかし、1960年頃から徐々に低迷の兆しが表れはじめミュージカルに転向するも一向に上向き傾向にならず松竹歌劇団は1996年をもって解散となりました。 昭和45年(1970年)以降の大型連休(ゴールデンウイーク)はザ・ドリフターズ(音楽バンド及びコントグループ1970年から1980年に活躍)の特別公演がおこなわれるようになります。 1981年(昭和56年)12月14日~12月18日、キング・クリムゾンの来日公演が行われます。1982年(昭和57年)4月5日、松竹歌劇団公演・第51回「東京踊り」をもって閉鎖となります。 今でも国際通りと呼ぶのはここからの由来なのです。 松竹が運営し松竹歌劇団や演劇などが上演していました。 ※キング・クリムゾン:イング

老舗喫茶「アンジェラス」とダッチコーヒー 昭和のレトロを感じる 

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老舗喫茶「アンジェラス」 東京都台東区浅草1丁目17-6 昭和21年(1946年)浅草のオレンジ通りに面した現在の場所に、山小屋風をイメージした喫茶店が開店いたしました。戦後まもない頃でしたので町中に傷跡がたくさん残っている状態でした。そのような中、ヨーロッパ風の外観はとっても映えて、あっという間に町中の話題をさらっていったのです。 ここのオーナーの思いは、この浅草に元気を注ぎたい。そうすれば復興も早められるだろう。このような事からこの店のオープンを立案いたします。ここで店名を決めたのは祖母でした。クリスチャンでしたので”お告げの祈りを意味する「Angelus」としたのです。 温故知新 その後、この外観もあって多くの著名人や芸能人らが足を運ぶようになります。その度に、外観や内部のデザインを楽しんでおりました。中には孫の代までも伝えてやりたいという方も現れます。 アンジェラスのオーナーはこう言います。 「昭和のレトロをお客様に感じてもらうために、敢えて、新しいことは致しません。いつまでも、変わらない空間を保ち若い世代の方々に伝えつづけていきます。」 「アンヂェラスのモットーはシンプル・イズ・ベスト」 古きを尋ね新しきことを知る。「温故知新」の考え方、素敵です。 ダッチコーヒー そして、いち早く取り入れたのはダッチコーヒー(お湯ではなく水で抽出するコーヒー、水出しコーヒーとも言います)でした。 なぜ、このダッチコーヒーを取り入れたのか。 実は、この当時のコーヒーはインドネシア産のコーヒーが出回っていたのですが、あまりにも苦みが強く、このコーヒーをいかに美味しく飲むことができないか。と考えだされたのが、このダッチコーヒーだったのです。 このダッチとはオランダ人のことで、その当時インドネシアは領土でしたからこの名前がつきました。この方法で抽出されたコーヒーは深いコクとまろやかさ、そして、香りと色のすべてを兼ね備えていたのです。 本当にとってもおいしい珈琲といえます。 抽出方法 人の心を打つコーヒーを作るには手間がかかるものです。豆の煎り方、挽き方などに達人技の全てがあります。このダッチコーヒーを作るには、まず水を一定間隔で一滴ずつ落とさなければなりません。この単純な工程を8時間~9時間おこないます。 こうして出来上がったコ

古風なカフェバーであの昭和初期の芸者歌手を知る 

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浅草 カフェバー 「ルーサイトギャラリー」 東京都台東区柳橋1丁目28-8 ここのカフェバーは昭和初期の芸者歌手・市丸さんの隅田川沿いの自宅を改装し2001年に骨董店として開店したものです。オーナーは骨董コレクターの米山明子さんです。工芸品や陶芸、家具なども取り揃えています。 気になる店舗名のルーサイト(Lucite)はアクリル樹脂でアクリルガラスとも呼ばれております。高い透明性と耐衝撃性があり、着色が容易なことから日用品や建築材などに使用されております。 店名にこの名を用いたのは、色々な物に染まれることから、その時に応じて色々な色を彩ることができるからのようです。 市丸・姉さん ここのギャラリーとなる前の持ち主であった芸者歌手・市丸(江戸小歌市丸:えどこうたいちまる)姉さんの事について触れていきます。 本 名 後藤 まつゑ(ごとう まつえ)江戸小歌中村派17世家元 出身地 長野県松本市 生年月日 明治39年(1906年)7月16日-平成9年(1997年)2月17日、90歳没。 大正11年(1922年)16歳の時に地元、松本市の浅間温泉で半玉(一人前の芸者の半分であったことから、見習い時期のことを言います)のときにお客から長唄を歌うようにリクエストされるのですが、長唄を知りませんので歌うことができませんでした。 ここで市丸は大恥をかき悔しい思いをします。この悔しさを晴らすため芸者の芸事全般を修行すべく、単身19歳で東京府浅草に居を移します。浅草で芸者清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねた結果、美貌と美声を買われたちまち人気芸者となりました。 そんな時でした。 ライバルが登場します。 浅草区千束町生まれの芸者、二三吉(1897年-1976年:ふみきち)が昭和3年(1928年)ビクターの専属歌手となり、翌年の昭和4年「浪花小唄」でデビューすると、これが大ヒット。 翌、昭和5年には映画「絵日傘」の主題歌「祇園小唄」までもがヒットを飛ばします。 ここで黙っていないのがレコード各社です。 新たなる芸者歌手の発掘に躍起となります。 そして、中でも天賦の美貌と美声で評判の高かった市丸にレコード会社のスカウトが群がります。結局、市丸を口説き落としたのはビクターでした。 歌手デビュー 昭和6年(1931年)市丸は「

究極の美味しさの肉まんと嗜好を楽しむシュウマイ

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シュウマイと肉まんの店「セキネ」 本店 東京都台東区浅草1-23-6 赤羽店 東京都北区赤羽1-11-1 脇役 昭和初期の頃、この浅草の地で大衆食堂の「セキネ」として開店します。 メニューを見ると定食やラーメン、親子丼、チャーハンなどが並んでいます。 そして、その隅のほうに申し訳なさそうに書かれてあったのは、シュウマイ、肉まんでした。まるっきり脇役あつかいです。 客の一人が定食のほかにもう一品と頼んだのが、一番隅に書かれてあった肉まんの一皿でした。これは味より量を好む彼の選択だったのです。定食の後に口に運んだ肉まんのあまりの美味しさに感動を覚え、追加注文をしたほど。 ここで店主の勧めもありシュウマイも食してみると、これも感動的な美味しさ。 ここから噂が噂をよび食べた客は口々に、この美味しさを呟きはじめます。この評判はたちまち広まっていき脇役の存在があっという間にトップの座につきます。 ここで店側は食堂の店名を改め、シュウマイと中華まんの専門店へと営業方針を変えます。 そして、昭和29年、名物 シュウマイと肉まんの店「セキネ」は、仲見世通りと寿司屋通りが交差する角に、ハイカラな建物の姿で年中無休の店として開店しました。 特大サイズ シュウマイは通常サイズと特大サイズの2種類がありますが、通常サイズは機械で包み、特大サイズは職人の手で一つ一つ包んでおります。味のほうは同じように思うのですが、通の人から言わせれば特大のほうが格別な美味しさがあると言うそうです。 タレ 付属のタレと辛子。特にタレはこのシュウマイのために職人が作り上げたもの。この自家製のタレがまた実に美味しい。このタレこそがシュウマイの本当のうま味を引き出してくれる職人技でなければだせない味です。 美味しい食べ方 まず、タレを付けずに食べてみてください。 つなぎを一切使用せず、豚肉と玉ねぎだけで余分な物を一切使用していませんので、口の中で広がるジューシーな豚肉の風味を味わうことができます。これは格別と言えます。 歩きながら食べる時は、このスタイルがおススメ。 ご自宅で召し上がる場合は、できるだけ蒸し器を使用するようにしてください。電子レンジをでも美味しく召し上がることができますが、美味しさの濃くが全く違います。 そして、セキネ自家製のタレを着けて召し上がってみてく

ますみ寿司は昭和のレトロが残る財産 見て聞いて食べておいしい

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オーラ散歩 浅草 「ますみ寿司」 東京都台東区千束4丁目38-12 私と友がたぬき通りを歩いていると、向こうから歩いて来たのは「ますみ寿司」の店主、2代目の増田茂さんでした。 ますみ寿司は吉原大門の近くで昭和33年創業します。この年の3月31日は赤線(公娼制度)廃止により慶長17年(1612年)からつづいた吉原遊郭の火は消えてしまいます。 ここの、ますみ寿司は元々、遊郭の貸座敷をしていました。この店の名前が「ますみ」。遊郭の閉鎖はもう決まっていましたので、その前に色々と職を変えながら、立ち食いスタイルの屋台寿司に落ち着きます。 遊郭の中に開店しましたので、その当時は、浅草からの芸人さんも多くいらしたようです。 昭和の財産 店の中に入って驚くのは、昭和のレトロそのまま。 その当時の贅沢を尽くした材料を用いた妓楼建築は遺産そのものです。飾ってあるものに至っても、珍しいものばかり、店主の話によると立ち食い当時は、お客様に手を洗ってもらうための蛇口と流し台がカウンターの下にまだ設置されているといいます。 ”今日は特別ですよ” と言いながら、ほんのちょっとのぞかせてくれました。 確かに昔を感じさせてくれる。 思わず ”いいな~” 寿司もお酒も昔話も、美味しかった。 暖簾(のれん) 開店当時は、立ち食いでしたので寿司をつまんで食べては指先を洗い、また、つまんで食べる繰り返しをしていました。そして、お帰りの際は、暖簾で手を拭く。だから汚れる。 客がくれば来るほど、暖簾が汚れている。だから繁盛店は暖簾が汚れているに繋がっていくのです。 現在、こんな事をしたら、間違いなく注意されますね。 寿司の歴史 東南アジアの山岳民族が魚を保存する際に、炊いた米の発酵を利用し一緒に長期保存するため用いた方法を寿司の起源としています。 その後、この保存方法が奈良時代(710年~794)に中国の長江から日本の九州辺りに伝わり「なれずし(熟れ鮨、馴れ鮨:酢飯を用いず魚と塩で乳酸発酵させもの」であったとされています。 握り寿司 江戸時代・文政年間(1818年-1831年)華屋 與兵衛(はなやよへえ)が江戸前握り寿司(江戸前の豊富で新鮮な魚介類を材料としている)を考案し「與兵衛酢(寿司店)」を開業したと言われています。これが江戸の寿司の文化を作り郷土料理

東京下町の小玩具の助六で遊び心を楽しんでみては

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江戸趣味小玩具「助六」 東京都台東区浅草2-3-1 1866年(慶応2年)助六は浅草の表参道・仲見世通りで創業します。 江戸趣味小玩具を販売しているこの店は、江戸末期から令和5年の今日現在まで、粋な玩具や飾り物で町人らと親しんできました。この間、幾人の方々もこの江戸趣味小玩具を商いとして取り組んできました。 しかし、今では日本にただ一軒だけの店となってしまった助六。間口は一間ほどでこじんまりしております。でも、驚くことに商品取扱店数は、なんと3.000点以上取り揃えてあるとか。小玩具だけに見ているだけで楽しく時間が立つのを忘れてしまいそうです。 この玩具の面白さもあり、助六に足を運ぶ観光客の7割は外国人のようです。そのため、すべての商品の説明書には英訳文が添付されております。あのイギリスのダイアナ妃も来日した際に立ち寄っています。また、ヒラリー・クリントンさんも訪れています。 何をお買い求めになったのか。ちょっと気になりますね。 現在のご主人は五代目の木村吉隆さん。展示玩具に心を染み込ませているだけあって、ご主人も中々人当りの良い方のようです。英語も堪能だとか。 あなたも、今度気軽に立ち寄ってみてください。 小玩具のはじまり なぜ、ここまで小玩具に拘りをもっているのか。 それにはこんな訳がありました。 時代をさかのぼること300年以上前のこと贅沢禁止令がだされます。豪華に飾る大型の玩具がご法度となったのです。そこで玩具職人らは、大型がダメなら。だったら小玩具で精巧な細工を施した物を作るしかないだろう。 と、このような環境が整い始めていきました。これが江戸趣味小玩具のはじまりとなります。 「笊(ざる)かぶり犬」 これは江戸の郷土玩具のひとつになります。 「笑」という漢字は、元々、竹冠に犬と書いたとされていました。この理由は犬に竹籠をかぶせると前がよく見えないために犬が後ずさりをする。これが笑いを誘うことから、この漢字が生まれたとされています。 さらに頭にカサをのせて「重ね重ね、いつもニコニコ健康に」そんな願いも込められています。このような玩具はデパートなどでは、決してお目にかかることはありません。 「赤ふくろう」 昔、赤い色は、病気を防ぐと信じられていました。これを持っていることにより、赤ん坊が病気にならない

天ぷらの雷神揚げが実にうまい これが老舗の味

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オーラ散歩 浅草 天ぷら 中清 東京都台東区浅草1丁目39-13 明治3年、浅草公会堂前に創業。江戸前の天ぷら「中清」 現在のご主人の中川敬規(よしのり)さんは6代目になります。ここの名物はなんといっても巨大なかき揚げ「雷神揚げ」が有名です。普通の5倍はあるので重箱の蓋が閉まらないほどどでかい。 この名前の由来は、仏文学者の辰野隆博士が、かき揚げの形が雷門の横にある雷神様が持っている太鼓に似ているからと名付けたそうです。 職人技 ただ大きいだけではありません。江戸前だけあって野菜は一切使用されておらず、具材は芝エビとアオヤギ(バカガイ)になります。 職人技と言えるのは、このどでかい『雷神揚げ』の厚さが中からふちまで均等にむらなく揚げてある。この出来栄えはお見事。 これに、ゴマ油(中清のオリジナル)を使い食してみてください。まさしく、浅草江戸前の味、そのものです。 天ぷらの歴史 1543年、ポルトガル人の商船が鹿児島県の種子島へ漂着。これが日本への初の上陸とされているようです。 ポルトガルからは多くの製品や食文化も日本に流入する中に、食材を揚げる料理方法のテンペロ(調理)も含まれていました。1669年(寛文9年)江戸の刊の「食道記」の中には「てんふら」という名称ではじめて登場しています。 当時の天ぷらはゴマ油で揚げることで魚の生臭さを消し、同時に魚介類の保存期間・賞味期間を少しでも延ばそうという狙いもあったようです。このことからも分かるように江戸前のてんぷらは魚だけを対象としていました。 東京国立博物館に保存の蔵書「近代職人尽絵詞屋台の天ぷら屋」には天ぷら屋と呼ばれる屋台の絵が描かれており、その暖簾(のれん)には大きく三文字で「天麩羅」と書かれてあります。 その絵の風景はと言いますと、庶民(ご婦人と子供と旦那様)が串に通された天ぷらを食べている、その姿が描かれています。この当時の天ぷらの具は魚の切り身を使用していたようです。(西日本では魚のすり身を素揚げしている) 天麩羅 ここで気になったのが、屋台の暖簾に書かれてある「天麩羅」の三文字の漢字。どのような理由でこの字が使われるようになったのか。 まず、この漢字を考案したのは、江戸時代後期の浮世絵師の山東京伝(さんとうきょうでん:1761年9月13日-1816年10

縁起物の雷おこしで福を手に入れませんか 美味しさも納得

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縁起物「雷おこし」 浅草には、さまざまな縁起ものがあります。 その中のひとつに、あなたもご存知の「雷おこし」があります。 この歴史を少したどってみます。 1795年(寛永7年)浅草寺の山門の雷門が最初の焼失をした時でした。 この雷門(正式名称:風雷神門)の再建に露天商が雷門を再度起こしたい「家をおこし、名をおこす」をかけたのと「雷よけのおまじない」の謳い文句で縁起の良いお菓子で売り出したのが始まりとなります。 この「雷おこし」は米を蒸して餅にし焙煎したものに水飴やピーナッツ等を混ぜてつくりあげます。 浅草の老舗 200年以上の歴史を持つ「常盤堂雷おこし本舗」が一番先に名前があがります。 東京都台東区浅草 1-3-2 昭和29年、浅草に設立した本社は鉄筋の和風作りで評判になりました。看板商品の雷おこしの味は、硬さに絶妙な食感がなんとも言えない味を醸し出してくれる伝統の製法は、今もなお愛され続けています。 一番人気 常盤堂を代表する一番の人気雷おこしは「上磯部おこし」受け継がれた伝統の技で仕上げた上品な甘さとコクが特徴となる雷おこし。白砂糖、黒砂糖、抹茶、海苔の4種類の味が1個ずつ包装になっています。 袋を手に取れば、そこに描かれているのは風神と雷神、そして、雷門。 浅草ならでは逸品といえるでしょう。内容量は45個。 原材料:水飴、小麦粉、落花生、砂糖、澱粉、米、植物油脂、加工黒糖、還元麦芽糖水飴、食塩、海苔、抹茶、膨脹剤、カラメル色素、香料。 新世代のおこし 先代からの技術を現代に継承した新世代の洋風雷おこし、それが「チュララ」です。 口の中に入れた瞬間に広がる甘さはピーナッツ風味の「ミルクピーナッツ」。 ほろ苦しく香ばしい味が美味しいアーモンド風味の「キャラメルアーモンド」。 あっさりとした甘さが包むメープル風味の「メープルココナッツ」の3種類。 期間限定品も発売されていますので、その季節の風味をお楽しみください。 生おこし さらに、あなたにお勧めしたいのは「生おこし」このおこしと出会った瞬間に、今まで思っていた雷おこしの概念が根本から崩れてしまいました。 まさしく、おこしが生です。 口の中でかみ砕いた瞬間に感じる粘り、糸を引いている感覚を覚えます。そのうえ、とっても上品な甘さが口の中に広がります。生

縁結びの会を発祥した今戸神社でのご縁に感謝

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 浅草「今戸神社」 東京都 台東区今戸1丁目5−22 私と友が訪れたのは今戸神社です。 御祭神 〇 應神天皇(おうじんてんのう:第15代天皇、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日) 〇 伊弉諾尊(いざなぎのみこと:日本神話に出てくる男神) 〇 伊弉冉尊(いざなみのみこと:日本神話に出てくる女神) 〇 福禄寿(ふくろくじゅ:七福神の内の一神で三徳の意味があり、福は、血のつながった実の子に恵まれること。禄は財産のこと。寿は、単なる長生きではなく健康を伴う長寿のことです。 縁結びの会 ここは平成20年10月26日、日本ではじめて「縁結び会」を発祥した神社になります。 現在の会員数は男性2500人を超え女性は5200人を超え伸び続けています。 会員登録は無料になりますが、信仰心がある方が対象となっておりますので、縁結御守(初穂料 800円)をお受けになる必要があります。お持ちでない方も同様です。 御祈祷 御祈祷する前に、本殿に参拝する必要があります。 本殿の手前には2体の「招き猫」(ナギちゃんとナミちゃん)が鎮座しあなたを出迎えてくれます。まずは二礼に拍一礼をお済ませてください。 個人の祈祷の主な内容は次の通りです。 良縁祈願、家内安全、商売繁昌、病気平癒、身体健康、合格祈願、学業成就、七五三、成人奉告、就職祈願、安産祈願、交通安全、自動車祓、旅行安全、心願成就、神恩感謝等々になります。事前の予約が必要になります。 女性神主 ここの神社のもう一つの特徴は、この今戸神社の宮司の家に生まれた美人姉妹が神主をなさっていることです。この環境の中で産まれ、手伝いながら育ちましたので、女性には珍しい神職の資格を取ります。 ここで神主の市野(姉)がこう言います。 「皆様は、アットホームな下町らしさを求めてくる方が多く、特に、暖かい雰囲気を求めて話かけてきますので、その後は、皆様方に元気になっていただこうと、笑い声で明るく接していこうと心がけています」 使命感のオーラ この事に対し私がこう言います。 「よく神職は、仲取り持ちって言います。これは、ここの神社にお参りき来てくださる方々と、神様との間を自分がしっかりと繋いであげてくれるからです。」 「そのとき神様だったら、こうおっしゃるだろうな、と言う言葉を来

手作り招き猫でさらなる幸運を 今戸焼工房

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 浅草「今戸焼工房」 東京都台東区今戸1丁目2−18 私と友がつづいて訪れたのは、500年の歴史を誇る今戸焼の工房でした。 今戸焼の歴史 1573年-1592年(天正時代)浅草の東北方面(今戸地区や橋場地区)で生産が始められていたようです。 招き猫 ここの工房で作られているのは、日本で代表的な縁起物の「招き猫」。 ここのオーナーの白井さんがこう言います。 「江戸時代、浅草の今戸には瓦職人が多くおりまして、その傍らで人形を作ったのが、招き猫の始まりと言われております。関東大震災を境に地方に引っ越したり、廃業する職人さんも増え30軒ほどあった窯元は、当工房の1軒だけになってしまいました」 継承 「私が、ここの工房の5代目となる主人の元に嫁いだのは1970年のことです。」 「3人の子供にも恵まれました。」 「そして、2008年のことです。今戸焼の最後の職人と言われた主人が他界し、私がこの職人技を受け継ぐことにしました」 お地蔵さん ここで私がこんな事を尋ねます。 「まったく話が違うんですが、お地蔵さんを作られていますか?実は、女将さんの後ろに、さっきからずっとお地蔵さんが見えているんですよ」 この事に白井はこう答えます。 「お地蔵さんは作ってないんですけど。でも、とっても嬉しいですね」 さらに私がこう尋ねます。 「お地蔵さんを作っていないとすれば、お地蔵さんを信仰していたことはありませんか?」 この事に白井がさらにこう言います。 「信仰もしていませんでしたが、すぐそこに待乳山聖天本龍院ってあるんですけど。そこで写経をしていました。そこには、お地蔵さんがたくさんありますよ。うちの3人の子が20歳になるまで、お地蔵さんに前掛けを差し上げておりました」 恩返し これに私がこう言います。 「あ、そうですか。お地蔵さんにお参りしたり、写経したり、だから、女将さんのことを一生懸命守っています。このお地蔵さんは『笠地蔵』だから守ってくれているんです」 今戸焼工房の女将の白井さんは、子供が産まれる度に近所の、待乳山聖天本龍院のお地蔵さんに赤い前掛けを作ってはお供えしていました。 現在は、お孫さんのためにお参りを続けているようです。 笠地蔵の話 東北地方の山深いところに小さな村がありました。 冬となると、とっ

レトロ調の中での思い出が気分を一新させる不思議な喫茶店

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オーラ散歩 浅草 喫茶「シルクロード」 東京都台東区西浅草3丁目14-11 私と友がつづいて訪れた場所は浅草ビューホテルの裏にある喫茶店でした。 店の白い壁の上の看板よくご覧ください。 松竹歌劇団(SKD)のメンバーによる白のジャケットに白い帽子でのラインダンスです。 今はもう色あせちゃっていますけど。 そして、庇(ひさし)にはこう書かれてあります。 「シルクロードはSKDスター憩いの場でした」 それだけ、団員らに愛された喫茶だったんですね。 松竹歌劇団 ここの店の奥には松竹歌劇団(1928年から1996年まで日本に存在した大衆娯楽演芸およびミュージカル劇団)の団員らの写真やサインなどが飾られた思い出のコーナーがあります。 この歌劇団は、1928年(昭和3年)8月、大阪松竹の資本の元、東京松竹歌劇部が部員14名で浅草の地に発足され、劇団員の憩いの場所と選んだのが、ここの喫茶「シルクロード」でした。 トップスター現る 突然、店に4人の女性が現れます。 この方たちは、元松竹歌劇団のスターの面々。千羽ちどり、銀ひ乃で、高城美輝、明石薫です。 この4人は平成4年、東京都台東区雷門1-16-11チドリビル内に、有限会社STAS(スタス)を立ち上げます。会社名はそれぞれの頭文字を取り名付けられました。 やはり、ここの喫茶店が居心地がいいのでしょうね。 店内の空間 外観の看板と庇に書かれてある内容に惹かれ店内の入ると、レトロそのもので、くつろぎの空間を感じてしまう。アットホーム的な店内には懐かしさを覚えてしまいます。 メニューに目を通すと「モーニングセット」から「ナポリスパゲティセット」までメニューが充実しています。 その中で人気メニューを尋ねると「カレーライスセット」。 幾つかのルーをブレンドして濃くのある美味しさに整えてあると言います。 ランチは4種類で1週間ごとに変わるそうです。 癒し この落ち着いた雰囲気の中で、この豊富なメニューには松竹歌劇団(SKD)の団員の方々も、ゆったりとした時間を過ごせたことでしょう。 レビューやミュージカルの華麗なる演技は、ここの癒しの空間があるからではないでしょうか。その証拠に店内の壁には、当時通ったスターのポスターや舞台写真、プロマイド、サインが飾られています。 そ

染め絵手ぬぐいで遊び心楽しむ ふじ屋 

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染絵手ぬぐい専門店「ふじ屋」 東京都台東区浅草2-2-15 私と友が訪れた先は染め絵専門店でした。 手ぬぐいの歴史 ここでほんのちょっと、手ぬぐいの歴史について触れてみます。 710年(奈良時代)から使われていたようで、主に神仏の像や飾り物を清掃するための雑巾のように用いられていたようです。 そのため染め絵は特に必要ありませんでした。 では、いつ頃から何のために染め絵されたのでしょう。 1603年(江戸時代)頃、実用からお洒落な小物に利用されたり、絵や文字を描いたりしたものを飾って楽しむるようになっていきました。 日本の伝統技法「注染(ちゅうせん)」 1946年(昭和21年)戦後まもなく「ふじ屋」は浅草寺の隣の通りに創業いたします。 ここの手ぬぐいは染め絵に使う染料は「注染」といい日本の染色技法の一つで、主に手ぬぐいに使われています。その技法は、模様を塗り付けない布地側に糊を付け、それ以外の部分に色を付けていきます。 染料は布地の裏側にまで抜けるので裏表なく柄が鮮やかで色褪せにくいのが特徴になります。すべてが手作業でおこなわれております。 オリジナル図柄 ここで私がこう言います。 「ここの店の手ぬぐいの絵柄がとにかく綺麗なうえ種類も豊富なんです。」 この事にご主人がこう言います。 「手ぬぐいはタオルのように使うだけでなく、飾って楽しむという文化も昔からありました。おしゃれと実用を兼ねた粋な手ぬぐいは、オリジナルの図柄が300種以上も取り揃えております。」 「縁起の良い図柄も多く、大きな目の鯛の『めでたい』、六つのひょうたんが描かれた無病との語呂合わせの『六瓢息災(無病息災)』、など、美しく縁起の良い手ぬぐいは、噺家や芸人の方々にも愛用されていますよ」 縁起物の良さ これに私がこう付け加えます。 「やっぱり、日常で生活する中での縁起物ですよね。そういう物を常に身に付けるって、すごくいいと思います。何故かと言うと、何か、気持ちがネガティブになっても、身に着けているもの見て『ああ、めでたい』ってなるでしょ。」 「そういった中でね、やっぱり情緒を大切にして心をコントロールすることが大事です。文化って何かを持っています」 柄の意味 するとご主人がこう言います。 「店内にはかなりの種類の手ぬぐいが展示されております

もんじゃ焼きが実に旨い 純喫茶マウンテン

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 浅草 喫茶「マウンテン」 東京都台東区浅草1-8-2 1F&2F 私と友がつづいて訪れたのは、1階はレトロな雰囲気を醸し出す、準喫茶マウンテン、2階はお好み焼きともんじゃ焼きマウンテンを経営しているお店でした。 ここ浅草には昔ながらの喫茶店がたくさん存在します。 もんじゃ焼き お好み焼きは、お好みの物を加え焼きますので、そのまま「お好み焼き」となります。だったら、もんじゃ焼きは?と考え調べたところ、 1819年(文政2年)まで遡り、葛飾北斎の代表作の「北斎漫画」の中にもんじゃ焼きの挿絵がありました。この当時の名前は「文字焼き」です。 焼く時にタネで文字を書くことが出来るところから「文字焼き」となり、これが訛って「もんじゃ焼き」となったとされています。 因みに、葛飾北斎は武蔵国葛飾郡本所割水下(現在の東京都墨田区の一角)で産まれており、ここから葛飾の名を使用したのでしょう。 もんじゃ焼きが、現在のようなスタイルになったのは昭和20年の戦後からで、浅草が発祥の地とされているようです。 どんどん焼き もんじゃ焼きから発生したのがどんどん焼きになります。大正時代から昭和10年代にかけて東京を中心に流行しだし全国へと広まっていきます。 作りかたは乗せ焼きが基本となっています。この焼き方が基本形となり屋台では多様な形で販売されていきます。 山形県では特有の地域料理ソウルフードにもなっていて、その形は割りばしに丸め提供されています。 この気になるどんどん焼きの名前ですが、作っては売れ、作っては売れ、とその場からどんどん売れていくことからどんどん焼きと名付けられた説と、太鼓をどんどん叩きながら販売していく、そのスタイルからどんどん焼きと名付けられた説とがあります。 他にも名付けの説があるようですが、当時を知るものの間でも意見が別れ、定説は分かれております。いずれにしろ、「どんどん焼き」も「お好み焼き」も「たこ焼き」も浅草の「もんじゃ焼き」がその元祖なのです。 おススメ ここで私がこう言います。 「いつも、ここに来た時に、必ず注文するのがあります。それは、抹茶生地のあんこ巻。これが実に旨いんです」 と言いながら自分で焼きますが、仕上がりに失敗してしまいます。でも、女将さんの石井さんがすかさずフォロー。すると女将さんの

運気が上がると言われる開運商店街 浅草たぬき通り

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オーラ散歩 浅草 「たぬき通り」 東京都台東区浅草1丁目 私と女友達がつづいて訪れた場所は浅草のたぬき通りでした。 たぬき通りの由来 明治の頃の浅草1丁目一帯は田んぼと草木が生い茂っている場所で、ここにはたくさんの狸が住んでいました。慶応4年1月、戊辰戦争が始まります。この影響で東京府の狸たちも方々に散っていきます。その中で浅草のたぬき通りに逃れてきた狸たちもいました。 ここで以前から居を構えていた狸たちと、よそ者狸たちの縄張り争いがはじまろうとした時です。 辰五郎たぬきの教え この狸たちの争いを止めなければと立ち上がったのが、浅草の長老狸の「辰五郎」。まずは、地元、浅草の狸たちに、観音様の教えと御慈悲を伝え平和で安穏に暮らせる大切さを説きます。 この悟りを知った狸たちは、平和を守る事と相手を思いやる気持ちを学びます。この狸たちの中から12匹の狸が人の役に立つことをしようと立ち上がりました。 そして、12匹の狸の修行が始まりました。長い修行を終えた狸たちは、願掛け狸としてたぬき通りのあちこちに立ち始めます。今では人々のお願いを聴き、天に届ける毎日が続いています。 願掛けたぬきの種類 「オレンジ通り」と「公園通り」を結ぶたぬき通りには、 「 大黒たぬき 」 職人技術の精巧、技の精進による成功などを願う浅草らしいたぬき様。商売繁盛を願いましょう。肩の袋や手に持つ小槌には湧き出るほどの金運を分けるご利益があります。 「 地蔵たぬき 」 錫杖をもったお地蔵様に化身した大勢の元気なこどもを育てたお母さんたぬきが、子宝や子育てに恵まれない貴方に、ご利益をお分けします。 「 天神たぬき 」 向上心旺盛な学帽をかぶった学者たぬきが、学業の向上と合格のご祈願に御利益をお分けします。 「 開運たぬき 」 何か大きなチャンスをつかみたいとき、運を掴み取りたいとき。運も実力のうち、でも必勝や発展を望むには前向きな気持ちが大切です。 「 不動たぬき 」 何があっても動じぬ、安定した毎日。煩悩や不安にも打ち勝つ強い心。煩悩を焼きつくし悪魔を追い払うという不動明王に化身した願かけたぬきが、家内安全で安心な毎日の生活を守ってくれます。 「 大師たぬき 」 数珠を手に持つ大師様に化身した体力と気力充満の元気たぬきが、厄年の方や交通

お願い事をかなえるには作法が必要 浅草神社

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オーラ散歩 浅草「浅草神社」 東京都台東区浅草2丁目3-1 私と友が神聖な土地といわれる浅草を訪れます。 神社の作法 ここで私が友に神社での作法を教えます。鳥居をくぐる前に一礼。 なぜ、ここで一礼するかと言うと、鳥居をくぐる前と後では全く違うエネルギーに変わりますので、お祓いを受ける気持ちでいきます。 鳥居の真ん中を正中といい、ここは神様が通るところですから歩かないようにします。行く時は左側を歩き、帰りの時は右側を歩きます。そして、社殿前に立ちましたら、お賽銭を投げ入れず両手に添えて神様に捧げる気持ちで、そっと静かにお賽銭箱に入れます。 続いて二礼二拍手一礼(2回おじぎをして、2回拍手を叩き、1回おじぎをします)最初の2回のおじぎは次の意味があります。1回目は先祖や守護霊に対して2回目は大神様に対してです。 お願い事 ここで私がこう言います。 「神さまは尊い存在ですので私達の思いは直接は届きません。ですので、中間に位置しているご先祖様や守護霊に聞いていただき、向こうの世界の方に伝えてくれるのですが、あまりにもくだらないお願い事であれば、先祖様や守護霊のところで却下されてしまいます。」 「願い事をしましたら、先祖様や守護霊に『それを宜しくお伝えください』で1回、2回目は大神様に対して『どうぞ宜しくお願いいたします』と伝えます」 歴史 628年(推古天皇36年:最初の女帝)、飛鳥時代の猟師 檜前浜成(ひのくまのはまなり)・武成(たけなり)の兄弟が宮古川(現在の隅田川)で漁労に精を出していたところ、その日に限り一匹の魚も獲れず、投網に掛かるのはただ人形の尊像だけでした。 しかしそれが観音像とは知らずに、幾度か海中に投げ入れ何度場所を変えても同じ事の繰り返しです。この兄弟は不思議に思い。官吏の土師中知(はじのなかとも)に相談に行ったところ同氏は「これぞ聖観世音菩薩の仏像にして現世御利益仏たり、自らも帰依の念深き仏体である」と告げられたのです。 願い叶う 観音様の像であることが分かり、2人は毎日この観音像にこうお願いをいたします。 「吾ら漁師なれば漁労無くしてはその日の生活も困る者故、明日は宜しく大量得さしめ給へ」 と厚く祈念して、翌十九日に再び浦々に網を打ったところ、船中は願いの如く溢れんばかりの魚に満ち足りたのです。そ

多くの作家が集った不思議な魅力の旅館・和可菜 

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旅館・和可菜 東京都新宿区神楽坂4丁目7 私と友が訪れた先は神楽坂の小さな旅館「和可菜」 ここは1954年(昭和29年)から営業をはじめています。先ほど小さいとご紹介しましたが、部屋の数はなんと5部屋だけになります。 神楽坂と言えば花街のイメージが強く、賑わいを想像する方もおいででしょう。しかし、ここの旅館「和可菜」はそんな賑わいを忘れる静かな佇まいの中にあるのです。 集う文化人 1階は「桐の間」の1部屋だけです。2階へと続く階段は風情が漂よい、素敵な一瞬を感じることができます。2階の葵の間をよくご利用なさったのは映画監督の山田洋次さんで「男はつらいよ寅次郎恋愛塾(1985年)」のマドンナを若菜と名付けるほどお気に入りでした。 ここで私がこんな事を女将に尋ねます。 「どの作家の先生方も1階よりも2階の部屋の方が良いとおっしゃいませんか?」 この事に女将がこう答えます。 「その通りです。特に山田洋一先生は、ちょうど西日が入りますので暑いのですが、クーラーがお嫌いな方でしたので、扇風機をお勧めしましたら原稿が飛ぶからダメだと。終始団扇で原稿をお書きになっていましたよ。」 和可菜の不思議 他には、作家の伊集院静さん、作家の野坂昭如さん、脚本家の内館牧子さん、映画監督の深作欣二さん、 劇作家の市川森一さん、などの多くの文化人に利用されてきました。その中で一番古い方は野坂昭如さんになります。 いつも『和可菜で原稿を書くと不思議と書けます』と言っておられました。昔はファックスがありませんでしたので、編集者の方が隣の部屋で待機しているのですが目を盗んでは逃げ出していましたね。それはそれは名人級でした」 神楽坂の力 この事に私がこのような事を言いました。 「不思議なんですけど、やっぱり神楽坂の力です。この部屋にいても何にも見えません。景色もそんなによいわけでもありません。西日が当たって暑いけれども、街の情緒が見えてくるところですね。ここは。」 「それに、この世の営みが見えるところです。感性が広がってくるエナジーを持っているんですね。だからちょっと『人と人がこういう風な出来事があった』とか、そういったことまで、色々なことが見えてくる力があるところなんじゃないかなと思います。想像力の井戸みたいな、泉みたいなところです」 すると女将