焼焦がしがなぜか旨い勘三郎せんべい 福屋  

神楽坂「毘沙門せんべい 福屋」
東京都新宿区神楽坂4-2
私と友が足を運んだのは歌舞伎役者にこよなく愛された「毘沙門せんべい 福屋」でした。

店舗の上に赤で力強く大きく店名が描かれています。この字をお書きになったのは歌舞伎役者の方なのでしょうかね。それにしてもご立派です。この煎餅店を語るには、この歌舞伎役者の事を語らなければなりません。

十七代目、中村勘三郎
歌舞伎役者がこよなく愛した中で十七代目の中村勘三郎(1909年、明治42年7月29日~1988年、昭和63年4月16日:78歳没・十八代目、中村勘三郎の父。六代目、中村勘九郎の祖父)
十七代目の勘三郎は女役・立役を共にこなす昭和を代表する一人で、ずば抜けた才能の持ち主でした。ほとんどの方は勘三郎と言うと十八代目勘三郎(1955年、昭和30年5月30日~2012年、平成24年12月5日:57歳没)を思い浮かべると思いますが、この方以上の名優だと言われております。

手焼 勘三郎せんべい
十七代目 中村勘三郎は偏食で有名な方でした。その中で神楽坂の「毘沙門せんべい 福屋」にも足蹴なく通っていました。そんな、ある日の事です。店主にせんべいをもっと焼け、もっと焼けと注文をつけます。

そして、出来上がったのが「勘三郎せんべい」です。
ここで店主がこう付け加えます。
「焼きすぎた焦げせんべいではありません。焦げるギリギリまで焼き上げたせんべい。これが勘三郎好みの焼き加減だったのです」

ここに勘三郎の好みの焼き加減に仕上げた名を冠する手焼き煎餅が出来上がりました。

究極の味
「毘沙門せんべい 福屋」には一般的な焼き加減のせんべいもあります。やはり名物となっているのは「勘三郎せんべい」です。普通のせんべいに比べると一回り小さめに仕上がっていますので、気が付くと3-4枚は食べていますよ。

この香ばしい焼き加減に口元に運ぶ手が自然に動いてしまう。究極の味とはこのことだろう。よくぞ、中村勘三郎はこの世に残してくれました。

毘沙門
屋号の「毘沙門せんべい」の、毘沙門のことを尋ねると、店主はこう答えます。
「店の真ん前にあるのが毘沙門様なのです。これにあやかり毘沙門せんべいとなずけました」

そこで、この毘沙門のことについて調べてみることにしました。
「四天王(仏法を守護する持国天・増長天・広目天・多聞天)の一尊の中の多聞天のことをいいます。造像安置する場合は「毘沙門天」と一般的に呼んでおります。信仰の発祥は794年、平安時代の鞍馬寺(京都市左京区鞍馬本町)でした。

そして、福の神として人気を得るようになっていきます。
福の神であれば屋号に付けたくなります。そして店名の「福屋」もあり神楽坂の名店のせんべい店となりました。

せんべいの歴史
栗や里芋、山芋等々を潰し焼いたものが縄文遺跡の住居跡から、そして、吉野ヶ里遺跡(佐賀県神崎郡吉野ヶ里町)や登呂遺跡(静岡県静岡市駿河区登呂五丁目)の住居跡から一口大の平で潰し焼いた穀物製の餅のようなものが出土しています。

そして、現在のせんべいの中で一番古いのは埼玉県草加市の草加せんべいになります。ここは米どころでもあり醤油の名産地でもあります。

さて、この草加せんべいがどのようにして誕生したのか。
それはこうです。

奥州街道および日光街道の宿場町の一つであった草加宿(現在の埼玉県草加市)で団子屋を開いていた老婆の”おせん”が通りがかりの侍から「団子を平らにして焼いたらどうだ」と問いかけられて出来上がったのが草加せんべいのはじまりです。

老婆の名前から「おせんべい」になったのでしょうか?
道路脇には草加せんべい発祥の地の石碑が建てられてあります。

つづいて、
オーラ散歩 毘沙門天 善国寺
勝負運があがりますよ

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