マンボ発祥の地とその男 東宝ダンスホール

東宝ダンスホール
東京都千代田区有楽町1丁目5-2 東宝ツインタワービル 7F
 1968年(昭和44年)5月に東宝エンタープライズが経営する約100坪のダンスフロアとして開館しました。格式あるダンスホールで生演奏をバックに社交ダンスを贅沢な空間で楽しむことができます。

ここに訪れた宏明がこう言います。
「ここの生伴奏を聴くと青春時代の血が騒ぎだすの。ダンスホールがいくつもあって、いつも熱気あふれていましたよ。そしてね。」

「日本でマンボの音楽が流れていても、誰一人として踊ることができなくて、この当時、私は進駐軍のファンらにジャズを歌って聞かせ、その代わりにというかマンボのステップを教えてもらいながら踊っていたから知っていたの。」

「そして、このフロアーで友らとマンボステップを踏んでいたら、銀座のヤクザ連中が『教えてくれ!』と来て。それで教えてあげたのよ。ここからマンボが全国に広まっていくの」

日本のマンボの文化を作ったのが美輪さんだったとは、知りませんでした。

マンボ
ラテン(中南米)音楽の一つで、キューバ民謡をアフリカ原住民の音楽のリズムと結びつけたものになります。

その中で有名なのが1950年、キューバの作曲家でマンボキングと呼ばれた、ペレス・プラードが作曲した「マンボNo5」はマンボ音楽の中で最も有名な曲になります。そして。「マンボNo.8 」を発表するとこれがまたヒット。

つづいて、有名な曲となると、やはり、ペレス・プラードのヒット曲で「エル・マンボ」キューバ語では「マンボはなんて素晴らしいんだ」

ではここで、マンボキングと呼ばれた男、ペレス・プラードについて触れてみます。

プロフィール
生年月日 1916年12月11日
出身地 キューバ マタンサス
本 名 ダマソ・ペレス・プラード(Dámaso Pérez Prado)

母親が学校の教師をしていた影響もあり、幼い頃からクラッシックピアノを教わっていました。その後、成人となり地元マンタサスのクラブでピアノの演奏をしていました。
この頃のジャンルはポピュラーでした。

そして、1940年代にはペレスは故郷を離れ首都のハバナにいたのです。ちょうど、この頃、ルンバとジャズが大分流行していました。ここでペレスは、この二つのジャンルを取り入れたリズム曲を演奏を思いつき発表するのですが、受けいられずに8年後、メキシコシティに移住。

マンボキング
そして、この地でペレスプラード楽団を結成します。この楽団は一躍人気となり、民衆はペレソ・プラードの事をマンボキングと呼ぶようになりますが、最初にマンボ曲を発表したのは彼ではありませんでした。

ペレスプラード楽団の活躍もあり、マンボは世界的なブームになります。アメリカに進出後の1955年に発表した「セレッソ・ローサ」英語版「チェリーピンク・チャチャ」が映画「海底の黄金」のテーマ曲となります。

この影響もあってか、この曲が全米で大ヒットを飛ばします。さらに、3年後の1958年に発表した「パトリシア」も全米ヒットチャートの1位となります。

最期
1989年9月14日、「マンボの王様」と呼ばれて一世を風靡したペレス・プラードが亡くなります。72歳での旅立ちでした。

独特の音楽スタイル
若者を中心に熱狂させたのは、ペレスプラードのステージ上での独特のスタイルにありました。それは、マンボの強烈なリズム曲に合わせステージ上を所狭しと踊り周りながら、独特の掛け声で煽ぐのです。これには観客のすべてが酔いしれていました。

日本マンボミュージシャン
日本でラテン音楽を中心に活動しているのはマンボミュージシャンのパラダイス山元。1991年、東京パノラママンボボーイズのメンバーとなり「マンボ天国」でデビューを果たす。

その後、パラダイス山元と東京ラテンムードデラックス、東京パノラマラウンジなどのバンドユニットで活動のかたわら「マン盆栽」(盆栽の鉢の中ににフィギュアを置いたり苔・木を飾る作品)を自らが創案し普及に努めている。

閉店
東宝ダンスホールは2019年11月末日をもって閉店となります。
なんか寂しいですね。

つづいて、
「銀巴里」
思い出の地に美輪がうるうる

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