下駄にジーンズでお洒落先取りを 履物の助六 

老舗の履物屋「神楽坂 助六」
東京都新宿区神楽坂3-6
私と友がつづいて訪れたのは履物の老舗「神楽坂の助六」でした。

ここは明治43年から代々引き継ぎ営業していて、今年で108年目になります。この間、色々な方がお見えになり、有名どころでは、歌集「乱れ髪」の与謝野晶子や首相の吉田茂、小説家の菊池寛等々。

どのような下駄を選びお履きになっていったのか。
思わず想像してしまいました。

現在の店主は三代目の石井要吉さんになります。
初代は日本橋橘町にあった履物屋の中田屋助六へ丁稚奉公にあがり、その後、暖簾(のれん)分けで神楽坂に店を構えます。

この当時の神楽坂は花街で活気づいていましたので、かなり繁盛していました。
花街と聞いて、思わずおもい浮かべたのが花魁。
この花魁が助六の高下駄を履き、横に擦りながら花街を歩く姿が思い浮かんできます。

浅草観音うら一葉桜まつり「江戸吉原おいらん道中」
毎年4月の第2土曜日、浅草観音うら三大祭の一つの「江戸吉原おいらん道中」が一葉桜(八重桜)が美しく咲く並木通りでおこなわれます。江戸情緒を今に伝える無形財産となっている「江戸吉原おいらん道中」。

吉原の土地で代々受け継がれてきた華やかなおいらん道中を、
江戸文化を基本に再構成いたしました。

舞踊界、歌舞伎界でご活躍の顔師さん、床山さん、衣装部さんなどの協力のもと、地元の方々が参加出演しています。花魁の履く高下駄や参加者の足元に注目してくださいね。
桜まつり開催場所:台東区浅草4〜千束 浅草・小松橋通り中心

江戸の履き倒れ
ここで店主の石井さんがこんな事を言います。
「江戸はですね『江戸の履き倒れ』と言われていました。『大阪の食い倒れ』、『京都の着倒れ』江戸っ子の粋っていうのは足元だったのです」

大阪の食い倒れはよく聞きますが、江戸の履き倒れ、足元が粋だったとは初めてです。

さらに店主が履物についてこうつづけます。
「履物の台の部分の素材が木でこしらえてあるものが下駄です。それに対して草履(ぞうり)下駄よりも格式が高いものを言いますね。また、歌人や風流人が好んで履く雪駄があります。当店は履物を購入の方々の鼻緒をその方の足に合わせてオリジナルで全てすげてあげています」

ジーンズに下駄
すると、ジーンズ姿の友が「ジーンズに下駄、似合うかな?」と言いながら黒土台の下駄と小桜模様の鼻緒を手に取ります。そして、履いて歩いてみると全然おかしくない。と言うよりもジーンズと下駄の組み合わせ、野暮ったくなく、これがまた粋なお洒落に見えるのです。

これからは、ジーンズに下駄を履く若者が増えそうです。
あなたのお洒落アイテムのひとつ付け加えてみてはいかがですか。

下駄の歴史
履物の起源は履いて歩くという目的よりも、湿地や水田での作業の沈み込みを防ぐために木の板が用いれたと思われております。この木版と思われるものが静岡県の登呂遺跡から出土しています。この当時のものを田下駄と呼んでいました。

上層階級の方々は足を保護するための目的で履物を履いていたようです。庶民はというと草履と下駄を用いていました。1940年頃からゴム靴が流行になり草履や下駄を履く方は少なくなっていきます。

慣用句
下駄を預ける:自分に関する事柄や問題等の一切を相手に任せることを言います。
下駄を履くまで分からない:勝負などはどう決着がつくか、最後の最後すべてが終わるまで結果がわからないことを言います。
下駄を履かせる:下駄を履かせると背が高くなることから、数量・点数などを水増しして、実際よりも多く見せることを言います。

つづいて、
「うなぎの店 たつみや」
究極の味を召し上がってください

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