中華まんの美味しさの元祖を味わって 神楽坂五十番

中華まん・点心「神楽坂五十番 総本店」
東京都新宿区神楽坂4丁目3番地 近江屋ビル1階
私と友がつづいて、美味しい中華まんのお店「神楽坂五十番」に足を運びます。
ここの店は昭和32年に創業し現在66年目を迎えました。店のモットーは信頼と品質。常に国産素材にこだわり、一つ一つに真心を込めた手作りに徹していますので美味しさの中にも安心があります。

ここの中島社長はこう言います。
「自然がくれたものが、一番のごちそう」

この言葉には感銘を受けます。大地があり、天には太陽があり、この恩恵を受け作物がすくすく成長します。地中深く育つもの、天に向かい育つもの。全て自然の四季の移り変わりが育ててくれます。

この作物のエネルギーを食し人間や動物は成長していきます。まさしく、自然が生きるものに与えてくれる一番のごちそうではないでしょうか。

実食
ここで友がこのような事を言いながら、
「この店はいつも行列のできる人気店だそうですよ」
店の中へと入っていきます。

私たちはふかしたてを注文します。友は特大の肉まん、私はあんまんを注文しました。食べながら口から出る言葉はこうです。
「うまい!」「美味しい!」「生地が厚くてフワフワで味がしっかりしている」「野菜のシャキシャキ感と肉感がとっても合ってる」

肉まんじゅうの歴史
中国の三国志(221年頃)の時代までさかのぼります。蜀漢の宰相、諸葛孔明が南蛮征伐したあと、帰路についたのですが、暴風雨のため川が氾濫し孔明が率いる舞台が足止めをくらいます。この川の氾濫を止めなければ向こう岸に渡る事ができません。

それには、人頭を水の神に捧げ祀る信仰をする必要がありました。

しかし、南蛮征伐の戦いで多くの戦士の命が奪われていましたので、これ以上の人命を損なうことのできなかった孔明は、これに代わるものとして小麦粉を用い皮を作り、その中に獣の肉を丸めたものを包み込み、人頭に似せたまんじゅうを作ったのです。

そして、このまんじゅうを川に投げ入れたところ、これまでの暴風雨が見事に止み川の氾濫が静まります。これが肉まんじゅうの始まりとされる逸話が残されております。

このような世の中です。現在も川が大氾濫した時に肉まんを川に投げ入れ、水の神に捧げ祀っている方がいるのではないでしょうか。

中華まんと日本
では、この中華まんがどのような経路で日本に輸入されたのか。

それは大正14年、新宿 中村屋の創業者、相馬愛蔵と相馬黒光のご夫妻が中国視察の際に「包子」(点心の一種で、通常、中に具を包んでいるものを包子といい、中に具が入っていないものをまんじゅうと称していました。)と出会い味わいます。

しかし、ご夫妻には脂っこく決して美味しいものではありませんでしたが、相馬ご夫妻は日本人好みに改良を加えれば絶対に売れるとの確信があったのです。
相馬は中国人の職人を雇い入れ、日本人向けにあっさりとした味に完成させます。

そして、昭和2年、「天下一品 支那饅頭(肉入り、餡子入り)」の名称として2種類が販売され、一般の方に広く親しめるようになっていきます。

この当時は肉まん、あんまんの呼び名はありませんでした。これ以前にも、中華専門店でも中華街でも本場中国の中華まん販売されていましたが、日本人の口には合わず一般に広まることはなかったようです。

中華まんのたれと辛子
九州北部・中部や中国地方南部のコンビニエンスストアでは中華まんを購入すると酢醤油と練り辛子が付属されてきます。この習慣は他の地方では見受けられません。

なぜ、このような習慣がついたのかと言うと、それは日本に中華まんが広まった当時、黒酢を付けて食べる習慣が中国であったのですが、日本には黒酢がありませんでした。

その代替えとして酢醤油が代用されたのです。関西方面のコンビニエンスストアでは練り辛子だけを付属する習慣があります。

つづいて、
神楽坂「和菓子 五十鈴」
和菓子へのこだわりだから美味しい

コメント

このブログの人気の投稿

龍が銀座の上空に現れた豊岩稲荷神社での祈りからか

美輪と三島由紀夫の衝撃的な出会いの場所は銀座ブランスウィック

究極の美味しさの肉まんと嗜好を楽しむシュウマイ