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オペラの母と言われた女の一生が短すぎた訳

浅草オペラを語るには、母と言われた高木徳子のことを一番に語らなければなりません。 プロフィール 本 名 永井徳子(ながいとくこ) 出生地 東京都千代田区神田神保町 生年月日 明治42年(1891年2月15日)-大正8年(1919年3月30日) 学 歴 神田高等女学校(現:神田女学園中・高学校)中退 結 婚 明治39年(1906年)11月 母親らの勧めで宝石店の次男で米国籍を持つ高木陳平と15歳の時に結婚し2人は渡米します。 ショービジネス ニューヨークに到着した2人はオハイオ州カントンで陳平は料理人、徳子はメイドやホテル等を手伝うも下働きを嫌い旅芸人となって各地を巡業して歩きます。徳子が歌う歌声は観客が魅了するほど、行く先々で喝采を浴びつづけます。 そんな徳子が本格的に歌の勉強をしている時でした。日本人の高折周一と出会いダンスを勧められ学びはじめます。この時です。アメリカ流のショービジネスがどんなものかを知り。そして、自分の中に秘めていた本能に目覚めます。 喝采 その後、ダンスとパントマイムを習ったあと、幾つかの職業を経験した後、ニューヨークの映画会社と夫婦共契約をし働くことになります。ここでも徳子の評判は高くイギリスの首都ロンドンからのオファー受け渡英します。 この時、旦那の陳平は徳子のマネージャー的な存在となっていました。 この地でも徳子の歌やダンスのショービジネスは好評を得ていました。そしてロシアからもオファーが入り渡露。公演をしている時のことでした。第一次世界大戦が勃発します。 1914年(大正3年)7月28日の時のことです。このことにより高木夫妻は同年、帰国の途に就きます。徳子23歳のときの事です。 日本デビュー 8年ぶりに日本の地を踏んだ徳子はイタリア出身の演出家・振付師のジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー(通称:ローシー)の振付による「夢幻的バレー(夢幻的バレエ)」で、1915年(大正4年)2月1日、東京・内幸町の日本初の西洋式演劇劇場と言われる帝国劇場で日本デビューを飾ることができました。 旗揚げ 1916年(大正5年)春ごろ、俳優・演出家の伊庭孝(浅草オペラを築きあげたひとり)の勧めもあり「世界的バラエチー一座」の集団を立ち上げ同年5月27日から浅草公園六区のキネマ俱楽部で昼夜に渡り公演

国内初のローラーコースターが元気に走り続ける 浅草花やしき 

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色々な歴史が”花やしき”をここまで育ててくれました。 ローラーコースターの話にはちょっと驚くかもしれません。 嘉永6年(1853年)日本で最初の遊園地が開園となります。この年の6月3日、神奈川県三浦郡浦賀町にペリーの黒船が来航。その6日後の6月9日、ニューヨーク万国博覧会が開幕されます。このような年でしたので、 どのような遊園地が開園したのか想像しながらご覧くださいませ。 花園(かえん) 団子坂(現在の文京区千駄木のあたり)と呼ばれるこの場所で地元の植木・造園職人の森田六三郎が菊細工や牡丹をあしらった花園として開園したのが1853年(嘉永6年)の江戸期のことです。この当時は園芸業者がお互い競いながら菊人形作りが盛んにおこなわれていました。 このことから、特定生産者による品物として流通するようになっていきます。 この事もあり花園は「花屋敷」と呼ばれるようになります。 明治時代 この当時の敷地面積は約8万㎡=24200坪、東京ドームの約1.7倍。江戸期ですので俳人や歌人らの園遊会などが開かれたり、武家の方々にも広く開放されたりしていました。明治に入り浅草寺一帯は浅草公園地となるのですが、花屋敷は元八番組・元九番組・元十番組の一部が合併して第5区となっていき、その敷地面積は縮小されてしまいます。 1872年(明治5年)頃からブランコやシーソー等の遊具も設置されるようになっていき、 1883年(明治16年)には大眼鏡館(望遠鏡)等が置かれるようになります。 1885年(明治18年)材木商の山本徳治郎がここの経営を引き継ぐこととなります。ここから本格的な遊園地化がなされていきます。ここの利用者は上流階級の方々から一般庶民にも浸透し全国的に見世物興行が広まっていき、ここ花屋敷も動物園的な役割も果たすようになっていきます。 1887年(明治20年)には五層の楼閣「奥山閣(おうざんかく)」が移築され翌年に公開されます。 1907年(明治40年)浅草六区の東京勧業博覧会から観覧車が移築されます。それ以外に映画館や演芸場の娯楽施設も立ち並ぶようになります。 大正時代 明治末年に団子坂は興行地としては衰退していきます。大正時代に入り花屋敷では虎の出産やライオンの出産で話題を振りまき全国有数の動物園として名を馳せるようになります。 192

松竹少女歌劇団(SSK)の想い出の場所 

 「国際劇場」 東京都台東区西浅草3-17-1 昭和12年(1937年)7月3日、幸龍寺(湯島、浅草と移転するも大正12年(1923年)の関東大震災の影響により昭和2年(1927年)世田谷区北烏山に移転)の跡地に松竹の資本の元、東洋一の五千人劇場と言われた浅草に国際劇場が開場されます。 小月冴子 ここのこけら落としの舞台は松竹少女歌劇団(SSK)の「第8回東京踊り」でした。 ※少女歌劇団:大正から昭和初期にかけて誕生した少年少女音楽隊が流行りだしていく。この事を背景に女性のみの歌劇団が1928年ごろに誕生発展しだします。 この時、松竹歌劇団(SKD)の男役スターとして「第8回東京踊り」を国際劇場の初舞台を踏んだのは、後に大幹部となる小月冴子でした。 ※小月冴子:1922年12月24日-2012年12月3日、89歳没:昭和11年、松竹少女歌劇学校に第4期生として入団する。昭和19年幹部に昇進し、昭和21年には大幹部に昇進となる。同年『ハムレット』タイトルロール=オペラやバレエ、演劇、映画などにおいて、作品名と同じ名前の役や昭和23年、1948年『猿飛佐助絢爛城へ行く』の早百合姫で人気を集める。昭和62年、紫綬褒章を受章。 公演内容と歌劇団 その後の公演は、松竹歌劇団(SKD:1928年から1996年まで松竹を母体としたミュージカル劇団)の大衆娯楽演芸は主に東京踊り、春のおどり、夏のおどり、秋の踊りと松竹映画との組み合わせで、それ以外は歌謡、剣劇、喜劇等が上演されていきます。 しかし、1960年頃から徐々に低迷の兆しが表れはじめミュージカルに転向するも一向に上向き傾向にならず松竹歌劇団は1996年をもって解散となりました。 昭和45年(1970年)以降の大型連休(ゴールデンウイーク)はザ・ドリフターズ(音楽バンド及びコントグループ1970年から1980年に活躍)の特別公演がおこなわれるようになります。 1981年(昭和56年)12月14日~12月18日、キング・クリムゾンの来日公演が行われます。1982年(昭和57年)4月5日、松竹歌劇団公演・第51回「東京踊り」をもって閉鎖となります。 今でも国際通りと呼ぶのはここからの由来なのです。 松竹が運営し松竹歌劇団や演劇などが上演していました。 ※キング・クリムゾン:イング

老舗喫茶「アンジェラス」とダッチコーヒー 昭和のレトロを感じる 

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老舗喫茶「アンジェラス」 東京都台東区浅草1丁目17-6 昭和21年(1946年)浅草のオレンジ通りに面した現在の場所に、山小屋風をイメージした喫茶店が開店いたしました。戦後まもない頃でしたので町中に傷跡がたくさん残っている状態でした。そのような中、ヨーロッパ風の外観はとっても映えて、あっという間に町中の話題をさらっていったのです。 ここのオーナーの思いは、この浅草に元気を注ぎたい。そうすれば復興も早められるだろう。このような事からこの店のオープンを立案いたします。ここで店名を決めたのは祖母でした。クリスチャンでしたので”お告げの祈りを意味する「Angelus」としたのです。 温故知新 その後、この外観もあって多くの著名人や芸能人らが足を運ぶようになります。その度に、外観や内部のデザインを楽しんでおりました。中には孫の代までも伝えてやりたいという方も現れます。 アンジェラスのオーナーはこう言います。 「昭和のレトロをお客様に感じてもらうために、敢えて、新しいことは致しません。いつまでも、変わらない空間を保ち若い世代の方々に伝えつづけていきます。」 「アンヂェラスのモットーはシンプル・イズ・ベスト」 古きを尋ね新しきことを知る。「温故知新」の考え方、素敵です。 ダッチコーヒー そして、いち早く取り入れたのはダッチコーヒー(お湯ではなく水で抽出するコーヒー、水出しコーヒーとも言います)でした。 なぜ、このダッチコーヒーを取り入れたのか。 実は、この当時のコーヒーはインドネシア産のコーヒーが出回っていたのですが、あまりにも苦みが強く、このコーヒーをいかに美味しく飲むことができないか。と考えだされたのが、このダッチコーヒーだったのです。 このダッチとはオランダ人のことで、その当時インドネシアは領土でしたからこの名前がつきました。この方法で抽出されたコーヒーは深いコクとまろやかさ、そして、香りと色のすべてを兼ね備えていたのです。 本当にとってもおいしい珈琲といえます。 抽出方法 人の心を打つコーヒーを作るには手間がかかるものです。豆の煎り方、挽き方などに達人技の全てがあります。このダッチコーヒーを作るには、まず水を一定間隔で一滴ずつ落とさなければなりません。この単純な工程を8時間~9時間おこないます。 こうして出来上がったコ

古風なカフェバーであの昭和初期の芸者歌手を知る 

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浅草 カフェバー 「ルーサイトギャラリー」 東京都台東区柳橋1丁目28-8 ここのカフェバーは昭和初期の芸者歌手・市丸さんの隅田川沿いの自宅を改装し2001年に骨董店として開店したものです。オーナーは骨董コレクターの米山明子さんです。工芸品や陶芸、家具なども取り揃えています。 気になる店舗名のルーサイト(Lucite)はアクリル樹脂でアクリルガラスとも呼ばれております。高い透明性と耐衝撃性があり、着色が容易なことから日用品や建築材などに使用されております。 店名にこの名を用いたのは、色々な物に染まれることから、その時に応じて色々な色を彩ることができるからのようです。 市丸・姉さん ここのギャラリーとなる前の持ち主であった芸者歌手・市丸(江戸小歌市丸:えどこうたいちまる)姉さんの事について触れていきます。 本 名 後藤 まつゑ(ごとう まつえ)江戸小歌中村派17世家元 出身地 長野県松本市 生年月日 明治39年(1906年)7月16日-平成9年(1997年)2月17日、90歳没。 大正11年(1922年)16歳の時に地元、松本市の浅間温泉で半玉(一人前の芸者の半分であったことから、見習い時期のことを言います)のときにお客から長唄を歌うようにリクエストされるのですが、長唄を知りませんので歌うことができませんでした。 ここで市丸は大恥をかき悔しい思いをします。この悔しさを晴らすため芸者の芸事全般を修行すべく、単身19歳で東京府浅草に居を移します。浅草で芸者清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねた結果、美貌と美声を買われたちまち人気芸者となりました。 そんな時でした。 ライバルが登場します。 浅草区千束町生まれの芸者、二三吉(1897年-1976年:ふみきち)が昭和3年(1928年)ビクターの専属歌手となり、翌年の昭和4年「浪花小唄」でデビューすると、これが大ヒット。 翌、昭和5年には映画「絵日傘」の主題歌「祇園小唄」までもがヒットを飛ばします。 ここで黙っていないのがレコード各社です。 新たなる芸者歌手の発掘に躍起となります。 そして、中でも天賦の美貌と美声で評判の高かった市丸にレコード会社のスカウトが群がります。結局、市丸を口説き落としたのはビクターでした。 歌手デビュー 昭和6年(1931年)市丸は「

究極の美味しさの肉まんと嗜好を楽しむシュウマイ

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シュウマイと肉まんの店「セキネ」 本店 東京都台東区浅草1-23-6 赤羽店 東京都北区赤羽1-11-1 脇役 昭和初期の頃、この浅草の地で大衆食堂の「セキネ」として開店します。 メニューを見ると定食やラーメン、親子丼、チャーハンなどが並んでいます。 そして、その隅のほうに申し訳なさそうに書かれてあったのは、シュウマイ、肉まんでした。まるっきり脇役あつかいです。 客の一人が定食のほかにもう一品と頼んだのが、一番隅に書かれてあった肉まんの一皿でした。これは味より量を好む彼の選択だったのです。定食の後に口に運んだ肉まんのあまりの美味しさに感動を覚え、追加注文をしたほど。 ここで店主の勧めもありシュウマイも食してみると、これも感動的な美味しさ。 ここから噂が噂をよび食べた客は口々に、この美味しさを呟きはじめます。この評判はたちまち広まっていき脇役の存在があっという間にトップの座につきます。 ここで店側は食堂の店名を改め、シュウマイと中華まんの専門店へと営業方針を変えます。 そして、昭和29年、名物 シュウマイと肉まんの店「セキネ」は、仲見世通りと寿司屋通りが交差する角に、ハイカラな建物の姿で年中無休の店として開店しました。 特大サイズ シュウマイは通常サイズと特大サイズの2種類がありますが、通常サイズは機械で包み、特大サイズは職人の手で一つ一つ包んでおります。味のほうは同じように思うのですが、通の人から言わせれば特大のほうが格別な美味しさがあると言うそうです。 タレ 付属のタレと辛子。特にタレはこのシュウマイのために職人が作り上げたもの。この自家製のタレがまた実に美味しい。このタレこそがシュウマイの本当のうま味を引き出してくれる職人技でなければだせない味です。 美味しい食べ方 まず、タレを付けずに食べてみてください。 つなぎを一切使用せず、豚肉と玉ねぎだけで余分な物を一切使用していませんので、口の中で広がるジューシーな豚肉の風味を味わうことができます。これは格別と言えます。 歩きながら食べる時は、このスタイルがおススメ。 ご自宅で召し上がる場合は、できるだけ蒸し器を使用するようにしてください。電子レンジをでも美味しく召し上がることができますが、美味しさの濃くが全く違います。 そして、セキネ自家製のタレを着けて召し上がってみてく

ますみ寿司は昭和のレトロが残る財産 見て聞いて食べておいしい

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オーラ散歩 浅草 「ますみ寿司」 東京都台東区千束4丁目38-12 私と友がたぬき通りを歩いていると、向こうから歩いて来たのは「ますみ寿司」の店主、2代目の増田茂さんでした。 ますみ寿司は吉原大門の近くで昭和33年創業します。この年の3月31日は赤線(公娼制度)廃止により慶長17年(1612年)からつづいた吉原遊郭の火は消えてしまいます。 ここの、ますみ寿司は元々、遊郭の貸座敷をしていました。この店の名前が「ますみ」。遊郭の閉鎖はもう決まっていましたので、その前に色々と職を変えながら、立ち食いスタイルの屋台寿司に落ち着きます。 遊郭の中に開店しましたので、その当時は、浅草からの芸人さんも多くいらしたようです。 昭和の財産 店の中に入って驚くのは、昭和のレトロそのまま。 その当時の贅沢を尽くした材料を用いた妓楼建築は遺産そのものです。飾ってあるものに至っても、珍しいものばかり、店主の話によると立ち食い当時は、お客様に手を洗ってもらうための蛇口と流し台がカウンターの下にまだ設置されているといいます。 ”今日は特別ですよ” と言いながら、ほんのちょっとのぞかせてくれました。 確かに昔を感じさせてくれる。 思わず ”いいな~” 寿司もお酒も昔話も、美味しかった。 暖簾(のれん) 開店当時は、立ち食いでしたので寿司をつまんで食べては指先を洗い、また、つまんで食べる繰り返しをしていました。そして、お帰りの際は、暖簾で手を拭く。だから汚れる。 客がくれば来るほど、暖簾が汚れている。だから繁盛店は暖簾が汚れているに繋がっていくのです。 現在、こんな事をしたら、間違いなく注意されますね。 寿司の歴史 東南アジアの山岳民族が魚を保存する際に、炊いた米の発酵を利用し一緒に長期保存するため用いた方法を寿司の起源としています。 その後、この保存方法が奈良時代(710年~794)に中国の長江から日本の九州辺りに伝わり「なれずし(熟れ鮨、馴れ鮨:酢飯を用いず魚と塩で乳酸発酵させもの」であったとされています。 握り寿司 江戸時代・文政年間(1818年-1831年)華屋 與兵衛(はなやよへえ)が江戸前握り寿司(江戸前の豊富で新鮮な魚介類を材料としている)を考案し「與兵衛酢(寿司店)」を開業したと言われています。これが江戸の寿司の文化を作り郷土料理