ますみ寿司は昭和のレトロが残る財産 見て聞いて食べておいしい

オーラ散歩 浅草 「ますみ寿司」
東京都台東区千束4丁目38-12
私と友がたぬき通りを歩いていると、向こうから歩いて来たのは「ますみ寿司」の店主、2代目の増田茂さんでした。

ますみ寿司は吉原大門の近くで昭和33年創業します。この年の3月31日は赤線(公娼制度)廃止により慶長17年(1612年)からつづいた吉原遊郭の火は消えてしまいます。

ここの、ますみ寿司は元々、遊郭の貸座敷をしていました。この店の名前が「ますみ」。遊郭の閉鎖はもう決まっていましたので、その前に色々と職を変えながら、立ち食いスタイルの屋台寿司に落ち着きます。

遊郭の中に開店しましたので、その当時は、浅草からの芸人さんも多くいらしたようです。

昭和の財産
店の中に入って驚くのは、昭和のレトロそのまま。

その当時の贅沢を尽くした材料を用いた妓楼建築は遺産そのものです。飾ってあるものに至っても、珍しいものばかり、店主の話によると立ち食い当時は、お客様に手を洗ってもらうための蛇口と流し台がカウンターの下にまだ設置されているといいます。

”今日は特別ですよ”

と言いながら、ほんのちょっとのぞかせてくれました。
確かに昔を感じさせてくれる。
思わず ”いいな~”
寿司もお酒も昔話も、美味しかった。

暖簾(のれん)
開店当時は、立ち食いでしたので寿司をつまんで食べては指先を洗い、また、つまんで食べる繰り返しをしていました。そして、お帰りの際は、暖簾で手を拭く。だから汚れる。

客がくれば来るほど、暖簾が汚れている。だから繁盛店は暖簾が汚れているに繋がっていくのです。
現在、こんな事をしたら、間違いなく注意されますね。

寿司の歴史
東南アジアの山岳民族が魚を保存する際に、炊いた米の発酵を利用し一緒に長期保存するため用いた方法を寿司の起源としています。
その後、この保存方法が奈良時代(710年~794)に中国の長江から日本の九州辺りに伝わり「なれずし(熟れ鮨、馴れ鮨:酢飯を用いず魚と塩で乳酸発酵させもの」であったとされています。

握り寿司
江戸時代・文政年間(1818年-1831年)華屋 與兵衛(はなやよへえ)が江戸前握り寿司(江戸前の豊富で新鮮な魚介類を材料としている)を考案し「與兵衛酢(寿司店)」を開業したと言われています。これが江戸の寿司の文化を作り郷土料理となって各地へと広がっていきます。

軍艦巻き
昭和16年(1941年)東京都中央区銀座の寿司店「久兵衛」の店主の今田氏がお客からこう注文を受けます。
「シャリの上にイクラを乗っけて食べたい」

そして、考えだしたのが酢飯の周りを焼き海苔で巻く方法でした。完成当初は避難を浴びますが、形の崩れやすい物(トビコ、イクラ、白魚、ウニ、ネギトロ)がシャリの上に固定できることから、江戸前寿司に加えられるようになります。

カリフォルニアロール
1963年、ロサンゼルスのリトル東京のレストラン「東京會館」の中に共同貿易社長の金井紀年(かないのりとし:1923年-2017年4月23日、享年94歳没)が「Sushi-Bar」を開店させます。
この時、金井は寿司職人の真下一郎にタラバガニの脚の身とアボカド、白ゴマをマネヨーズであえた巻き寿司を考案させ、そしてこれを「カリフォルニア・ロール」と命名させました。ここから、アメリカ合衆国の各地に寿司ブームが巻き起こっていきます。

寿司戦略
なぜ、金井氏はあえて、このようなスタイルの巻き寿司を考案させたかと言うと、アメリカ人は生の魚介類や海苔になじみがない為、大分抵抗がありました。であれば、アメリカ人の好む食材を使い巻き寿司作り、徐々に酢飯に慣れたころ、日本式の寿司に触れさせようとの戦略を考えていたのです。

日本ではこのスタイルの寿司には抵抗がありましたが、現在では日本国内でもよく食べられるようになります。このような功績もあり、金井紀年氏は「ミスター寿司」と呼ばれるようになります。

つづいて、
シュウマイと肉まんの店「セキネ」
ここは本物の味です!

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