天ぷらの雷神揚げが実にうまい これが老舗の味

オーラ散歩 浅草 天ぷら 中清
東京都台東区浅草1丁目39-13
明治3年、浅草公会堂前に創業。江戸前の天ぷら「中清」

現在のご主人の中川敬規(よしのり)さんは6代目になります。ここの名物はなんといっても巨大なかき揚げ「雷神揚げ」が有名です。普通の5倍はあるので重箱の蓋が閉まらないほどどでかい。

この名前の由来は、仏文学者の辰野隆博士が、かき揚げの形が雷門の横にある雷神様が持っている太鼓に似ているからと名付けたそうです。

職人技
ただ大きいだけではありません。江戸前だけあって野菜は一切使用されておらず、具材は芝エビとアオヤギ(バカガイ)になります。

職人技と言えるのは、このどでかい『雷神揚げ』の厚さが中からふちまで均等にむらなく揚げてある。この出来栄えはお見事。
これに、ゴマ油(中清のオリジナル)を使い食してみてください。まさしく、浅草江戸前の味、そのものです。

天ぷらの歴史
1543年、ポルトガル人の商船が鹿児島県の種子島へ漂着。これが日本への初の上陸とされているようです。

ポルトガルからは多くの製品や食文化も日本に流入する中に、食材を揚げる料理方法のテンペロ(調理)も含まれていました。1669年(寛文9年)江戸の刊の「食道記」の中には「てんふら」という名称ではじめて登場しています。

当時の天ぷらはゴマ油で揚げることで魚の生臭さを消し、同時に魚介類の保存期間・賞味期間を少しでも延ばそうという狙いもあったようです。このことからも分かるように江戸前のてんぷらは魚だけを対象としていました。

東京国立博物館に保存の蔵書「近代職人尽絵詞屋台の天ぷら屋」には天ぷら屋と呼ばれる屋台の絵が描かれており、その暖簾(のれん)には大きく三文字で「天麩羅」と書かれてあります。
その絵の風景はと言いますと、庶民(ご婦人と子供と旦那様)が串に通された天ぷらを食べている、その姿が描かれています。この当時の天ぷらの具は魚の切り身を使用していたようです。(西日本では魚のすり身を素揚げしている)

天麩羅
ここで気になったのが、屋台の暖簾に書かれてある「天麩羅」の三文字の漢字。どのような理由でこの字が使われるようになったのか。
まず、この漢字を考案したのは、江戸時代後期の浮世絵師の山東京伝(さんとうきょうでん:1761年9月13日-1816年10月27日)だと「近世風俗史」に書かれてあります。

駆け落ちで江戸へ
1781年-1789年の天明の頃です。上方(畿内地方)から浪人風の男と芸者が駆け落ちし江戸にやってきます。この男は江戸の町の商いを見て歩くも、上方にはあるものも、江戸にはないものを探し出したのです。

それは油で揚げる魚「つけあげ」でした。そこで、この男は屋台で夜販売することを思いつきます。この商いをするにあたり、まず、相談を持ち掛けた人物は浮世絵師の山東京伝でした。

命名
さっそく、山東はこの「つけあげ」を食べてみたところ、これが実に旨い。この味なら、江戸の庶民の口に合うと、この商いを賛成します。この際、この男から山東へこんなお願いがなされます。
「江戸の町に合う、何か良い名前はないものでしょうか?」

ふむふむ、と考えた山東は「天麩羅(てんぷら)」の三文字を与えます。
この名前の理由を山東に尋ねると。

山東はこう言います。
「お前は、天竺浪人(住所不定の放浪者)の『天』。蛋白源の一翼を担う食材の『麩』。衣がうすぎぬのところから『羅』。ここからこう名付けた」と言ったそうです。

と言うことは、東京国立博物館の蔵書の中に出てくる天ぷら屋の屋台の絵は、山東京伝が描いた浮世絵と言うことなのでしょうか。あの屋台の奥にいる店主は、あの駆け落ちの男なのか?

付け加えになります。
この当時の江戸の天麩羅は貝柱、芝エビ、こはだ、穴子等々の魚介類をころも無しで油揚げにしていたようですよ。
この当時の天麩羅を食べてみたくなりました。

つづいて、
オーラ散歩 浅草 江戸趣味小玩具「助六」
この玩具にはハマりますよ

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