古風なカフェバーであの昭和初期の芸者歌手を知る 

浅草 カフェバー 「ルーサイトギャラリー」
東京都台東区柳橋1丁目28-8

ここのカフェバーは昭和初期の芸者歌手・市丸さんの隅田川沿いの自宅を改装し2001年に骨董店として開店したものです。オーナーは骨董コレクターの米山明子さんです。工芸品や陶芸、家具なども取り揃えています。

気になる店舗名のルーサイト(Lucite)はアクリル樹脂でアクリルガラスとも呼ばれております。高い透明性と耐衝撃性があり、着色が容易なことから日用品や建築材などに使用されております。
店名にこの名を用いたのは、色々な物に染まれることから、その時に応じて色々な色を彩ることができるからのようです。

市丸・姉さん
ここのギャラリーとなる前の持ち主であった芸者歌手・市丸(江戸小歌市丸:えどこうたいちまる)姉さんの事について触れていきます。

本 名 後藤 まつゑ(ごとう まつえ)江戸小歌中村派17世家元
出身地 長野県松本市
生年月日 明治39年(1906年)7月16日-平成9年(1997年)2月17日、90歳没。

大正11年(1922年)16歳の時に地元、松本市の浅間温泉で半玉(一人前の芸者の半分であったことから、見習い時期のことを言います)のときにお客から長唄を歌うようにリクエストされるのですが、長唄を知りませんので歌うことができませんでした。

ここで市丸は大恥をかき悔しい思いをします。この悔しさを晴らすため芸者の芸事全般を修行すべく、単身19歳で東京府浅草に居を移します。浅草で芸者清元・長唄・小唄それぞれで名取となるまでの精進を重ねた結果、美貌と美声を買われたちまち人気芸者となりました。

そんな時でした。
ライバルが登場します。

浅草区千束町生まれの芸者、二三吉(1897年-1976年:ふみきち)が昭和3年(1928年)ビクターの専属歌手となり、翌年の昭和4年「浪花小唄」でデビューすると、これが大ヒット。
翌、昭和5年には映画「絵日傘」の主題歌「祇園小唄」までもがヒットを飛ばします。

ここで黙っていないのがレコード各社です。
新たなる芸者歌手の発掘に躍起となります。

そして、中でも天賦の美貌と美声で評判の高かった市丸にレコード会社のスカウトが群がります。結局、市丸を口説き落としたのはビクターでした。

歌手デビュー
昭和6年(1931年)市丸は「花嫁東京」で歌手として初のステージに立つことになります。
同年、新民謡の北原白秋が作詞の「ちゃっきり節」を発表すると全国的な大ヒットを飛ばし、翌、昭和7年(1932年)には片岡千恵蔵の主演映画「旅は青空」の主題歌「青空恋し」も、これまたヒットを飛ばします。

新たなる芸者歌手
昭和6年(1931年)今度はビクターが口説き落としたのは東京の葭町(現在の中央区日本橋人形町)に籍を置いている新潟出身の愛くるしい笑顔と美声で評判があった小唄勝太郎(こうたかつたろう・女性歌手)でした。

昭和7年(1932年)植樹記念として作られた「柳の雨」がヒットとなり、同年の大晦日、新進作曲家の佐々木俊一が作曲した「島の娘」が発表されると3か月で35万枚の大ヒットとなるのです。
そして、勝太郎を一躍国民的な人気歌手とさせたのは「東京音頭」でした。
この曲は東京だけでなく、全国の盆踊り会場では「東京音頭」一色に染まっていきます。

さらば浅草
このあたりから芸者出身の歌手が次々とデビューしていきます。この光景を目の当たりにした市丸は後輩には負けまいと新民謡の「天龍下れば」をヒットさせるべく歌いに歌い、ついにヒットさせます。

その後も市丸の人気は芸者歌手にとどまらずグラビアまでにも発展していくのですが、市丸は芸者を廃業し歌手に専念することにします。
そして、浅草を離れて台東区柳橋に新居をかまえます。

ここの邸宅が「ルーサイトギャラリー」なのです。

つづいて、
浅草 老舗喫茶「アンジェラス」
ここの喫茶店魅力あり過ぎです

コメント

このブログの人気の投稿

龍が銀座の上空に現れた豊岩稲荷神社での祈りからか

美輪と三島由紀夫の衝撃的な出会いの場所は銀座ブランスウィック

究極の美味しさの肉まんと嗜好を楽しむシュウマイ